2011年12月14日水曜日

求められる教職員の意識改革

先日、国立大学法人福岡教育大学の事務職員・寺田浩一氏が書かれた「大学のガバナンスの強化に向けた取組事例」という連載記事の一部をご紹介しました。その後もこの連載をウオッチしていましたが、改めて最終回(文部科学教育通信 No281 2011.12.12)の記事の中から抜粋してご紹介します。

(関連過去記事)求められる責任と権限の明確化(2011年10月24日)

前回の記事をご紹介した際、この記事に対する批判的(建設的な批判)なコメントがこの日記に寄せられましたが、読み手によってこの記事の評価は分かれるところだと思います。この記事を書いた筆者のねらいは知る由もありませんが、いずれにせよ、何かの論を外部に発するということは、賞賛、賛同、共感、批判(ためにする批判・建設的な批判等)等が当然ありえます。所見を外部に発して、なんらの反応もないものほど価値が低いものはないと思います。

この記事は、一部の教員の方々にとっては、異論、異議、批判の対象になってしまうかもしれません。しかし、読者が、この記事に何がしかの関心を抱いて読んだということは事実ですし、それはとても良いことですし、重要なことではないかと思います。

「父親とは、男の親のことである」と言えば、間違いなく正しいことであり、批判されることもありません。しかし、そこには何も議論が発展しないし何も生まれることはありません。一方、「男親とは強いものである、働く者である」と言ったならば、議論百出、糾弾されるかもしれません。こうして議論が活性化し、何かが生まれるかもしれません。摩擦を起こし、過熱状態にならなければ、組織は変わらないと思います。国立大学法人は、変わらなければなりません。この記事が、火付け役や過熱器の役割を果たすことがあってもいいのではないかと個人的には思います。

「私はあなたの言うことに一言も賛成できない。でも、あなたにはそれを言う権利があることは、命をかけて守ります」とボルテールは言っています。より正常な大学運営のために、未来ある学生のためにも、議論の質の高まりにこそ留意すべきではないかと思います。


最後に-求められる教職員の意識改革

これまで、福岡教育大学が取り組んできた「運営組織改革」「事務組織改革」「業務改革」の三つの改革についてご紹介してきた。いずれも所期の目的は果たすことができたのではないかと考えている。

しかし、決定に至る経過は必ずしも順調とは言えなかった。改革を進める上で、最も課題となったのが「意思決定に時間や労力がかかりすぎること」である。なぜこれほどまでに検討や審議に時間と労力をかけなければならないのだろうか。「合意形成」を重視するあまりに、本来であれば、学長・理事が自らの責任と権限において決定すべきことや、担当者等現場の判断で迅速に対応すべき些細なことが会議に諮られる、あるいは、会議のための会議など屋上屋を架すプロセスを経なければ前に進まないといったことが、結果として意思決定の遅さを生んでいるのではないだろうか。

時間や労力だけではない。会議では、委員・列席者・資料等作成者の人件費とともに、照明・冷暖房費、資料印刷費、記録用消耗品費等が消費され、大学に存在する全ての会議に要する費用(税負担)は膨大な金額に上る。国からの税金投入が年々削減されている中で、議論の重点化・集中化・迅速化の観点から会議を厳選し、必要最小限の会議についての有効活用に向けた取り組みを進めるべきではないだろうか。

大学には、従来から一般社会や民間企業とは異なる「特殊な組織風土」が存在し、この特殊性が経営を改革・強化する上で大きな障壁となってきたと言われている。国立大学の法人化によってはじめて可能になった制度改革の一部は、実は昭和四十年代から既に国会において議論されていたという。

国立大学法人化と時を同じくして設立されたわが国初の公立大学法人である国際教養大学の中嶋理事長兼学長は、その著書「なぜ、国際教養大学で人材は育つのか」(祥伝社)の中で、国立大学の学長経験を踏まえ、「大学とは本来、時代の変化にもっとも敏感に対応すべき場所」であるとした上で、「カリキュラムの後ろには教員がついていて、少しでもいじろうとすれば、たちまち抵抗する。このため、カリキュラム一つなかなか変えられない」「思い切ったカリキュラムの導入や大学運営をするには、大学自身の大変革が必要であり、しかし、大学教員の意識は極めて保守的、閉鎖的で、その多くが変革を望んでいない」と述べ、教員の意識に起因する問題点を指摘している。

国立大学法人は、今、学長のリーダーシップの下で自主的・自律的な大学経営に努め、魅力ある教育研究や活力ある大学運営を目指した改革を進めていかなければならない。しかし、大学経営に最終的な権限と責任を担う学長のリーダーシップの発揮が求められて久しいにもかかわらず、相変わらず困難な状況にある。その理由の一つに「学長は単なる同僚教員の代表者であるとする風土に大きな変化が見られない」ことを挙げる大学人もいる。確かにこれでは、学長と教員との対等関係の意識が維持され、経営責任者としてのトップマネジメントは難しい。

寺尾学長は、教職員との対話を重視し開催した「大学運営方針の全学説明会」(2010年4月22日)において、教職員の意識改革の重要性を次のように訴えている。

「大学の業務や運営は、中期計画・年度計画に従って展開されます。それらは無理なく円滑に実行されることが重要ですが、同時に、教職員の意識を高め、各組織の創意工夫のある自主的・積極的な取り組みによって、一層の成果を上げることが求められています。端的に言って、内向き目線で物事を考える傾向を改め、社会からの要請に目を向ける必要があります。そのためには、物事を、常に、『本学に何が問われているか。何をすべきか。何ができるか。それをすれば何がよくなるか』という思考様式に則って考え、判断していくことが重要になってきます。」

また、「大学経営戦略に関する全学説明会」(2010年10月7日)で寺尾学長は、「大学改革は教職員、学生の意識に依るところが大きい」と述べ、社会や地域の期待に応える大学となるため、「教員中心の発想から学生中心の発想へ」「講座の人間としての意識から大学人としての役割の自覚へ」「学内目線の論議から社会・国民目線の論議へ」という三つの転換を教職員に強く求めている。

これからの大学経営、とりわけガバナンスの強化にとって大切なことは、時代や社会の要請に即応し、学長、理事、教員、事務職員といった大学の構成員がそれぞれの立場を尊重、あるいは連携し自らの役割を責任持って果たしていくことである。そのためには、大学を閉ざす内向きの視点・発想は直ちにやめて、社会の常識を常に意識しながら自らを厳しく律し不断の改善努力を行い、そのことを社会に対して正直に説明していくこと、社会の常識から見て、いかに頭末で生産性のない無駄な議論を貴重な時間やコストをかけてやっているかをさらけだすこと、そういった透明化、見える化が何より必要である。そうすることにより、自らの存在価値を示し、社会から信頼される大学になっていくのではないだろうか。

私たちには、「大学は学生のためにある」ことをあらゆる価値判断の基準に据え、「大学が何をしてくれるかではなく、自分が大学に何ができるか」を常に自問していく姿勢が求められているのではないだろうか。(文部科学教育通信 No.281 2011.12.12)