2012年9月25日火曜日

プロとしての事務職員

文教ニュース(平成24年9月17日)に掲載された記事から、「事務は一段下に見られている-ならば武器を持とう」をご紹介します。


大学の事務職員の悩みの一つに、教員との関係がある。「事務は一段下に見られている」というものだ。30年も前に、就職したときに、「君は何で大学職員になったんだ」と、さんざん聞かれ、大学院に進んで学位を目指しているかつての同級生をまぶしく感じたことを思い出す。

事務局の大先輩で有職故事にも精通し、切れ者と自他共に認められている人でさえ、教員との距離感に悩んでおられたが、それでも、学園紛争時などは、学生部の事務職員にはいわゆる「専門職」として、相当の敬意が、”教員並み”に払われていたらしい。教員と共に、自治会や学生と団交し、諸規定を熟知し、学生だけでなく、大学本部の文部省や警察ともわたりあっていけるという武器を持つ、専門職たるプロだったからであろう。

教員の中でも特に、一線の研究者や大学病院の医師と交流して感じるのは、彼らの周辺の事務職員や技術職員に礼をもって接しておられることだ(甘いということでは決してない)。ただ、当然といえば当然なのだろうが、その対象は、彼らの研究や診療を、実験機器の製作や計測、或いは経理や人事、診療報酬や材料調達、プロジェクトのマネージメントという分野で徹底して支えるというプロの仕事にある。とある高名な研究者は、機械工場の技術者にきちんと挨拶をしない学生を叱り飛ばし、最先端の医療に取り組む医師は医事課の係員の説明に真摯に耳を傾ける。

つまり教員の論理としては、自らの教育研究の協働者としての「プロとしての事務職員」を求めているということなのだろう。である以上は、教員・研究者がプロに徹するのも言を俟たないが、ある私学団体の調査によると、大学改革の推進を主導する主体は理事会や数学部門より事務部門の方が多いとの報告もある。

大学をささえるステークホルダーが大学にプロの仕事を求めているのは当然だ。

国立大学法人化後は、文部科学省の支社ではなく、全て「国立大学法人○○大学本社」として、自己責任による質の高い運営が求められている。事務職員はこれまでジェネラリストとして立ってきたとはいえ、特に大学が社会の変革エンジンたるためには、そのカバナンスを考えたとき、大学を支えるひとりひとりの職員が、その職能によって徹底したプロになりきらないと、課題先進国の大学として、国際競争や、少子化、財政問題など、大学人が抱えている重い課題や将来に太刀打ちできない。

それに事務職員がプロになるということは、目の前の課題から逃げず、専門能力という武器を持って個々の能力を高め、職員数を抑制しながらもその価値を高め、畢竟プロとしての処遇にもつなげてもいくということになる。まさに、教員と事務は「車の両輪」なのだから・・・・。