2013年8月8日木曜日

スカイタイム

ブログ「人の心に灯をともす」から子どもたちとの約束」(2013年8月5日)を抜粋してご紹介します。


羽田発、沖縄行きの機内でポーンと軽快な音がして、シートベルト着用のサインが消えた。

窓側に座った妻・友里は、待ちかねたようにバッグの中から写真を二枚、取り出した。

光穂(みつほ)と真(しん)の写真だ。

「光穂、真ちゃん。ほら、もう雲の上まで来たよ。飛行機に乗ってるんだよ。見える?」

目に涙をいっぱいためた妻が、小さな声で二人に語りかける。

妻はあの日以来、全く笑わなくなってしまった。

1年前の3月11日。

津波は、私と妻の大事なものばかり奪っていった。

家はもちろん、しっかり者の母、穏やかな祖母、そして二人のかわいい子どもたち。

私たち夫婦はあの日から抜け殻のようになってしまった。

たくさんのものがぽっかり抜け落ちた状態に耐え切れず、「みんなのところに行こう」と言い出したのはどちらだったか、覚えていない。

みんなのところへ行く前に、せめて子どもたちとの約束だけは果たそうと、私たちは沖縄行きを決めた…。

私たちは、海沿いの町から車で30分ほど走った商店街の一角でパン屋をしていた。

夫婦二人でもやっていけるほどの小さな店で、焼きたてのメロンパンと、妻が改良に改良を重ねたラスクが人気だった。

私と妻は毎朝、光穂や真が寝ている間に家を出ていた。

母と祖母がいるから、安心して子どもたちを任せられたのだ。

それに、朝は早いけれど、仕込みさえ終われば遅くない時間に帰ることができるから、子どもたちと触れ合う時間もちゃん取ることができる。

ある日、売れ残ったパンを手に玄関のドアを開けると、バタバタと子どもたちが走ってきた。

5歳の娘と3歳の息子がいつものように、「パパ、ママ、あのね…」と口々に話し始める。

私は光穂と一緒にリビングへ行った。

「ね…、パパ。スカイタイムって知ってる?」

「スカイタイム?」私は首を捻った。

「タイムっていうとハーブかな?」

「ちがーう」

「ええ?なんだろうースカイだから…空に関係してる?」

「ちょっとせいかーい」

「あのね、飲み物なんだよ。美味しいジュース!」

「へえ、新しいジュースが出たのか。幼稚園で飲んだの?」

ううん、と光穂は首を振った。

「スーパーとかには売ってないの。飛行機に乗ったら飲めるんだって、リオちゃんが」

リオちゃんというのは、光穂の一番仲のいい友だちだ。

「へえ。じゃあ、リオちゃん、飛行機に乗ったんだ?」

「うん、沖縄に行ったんだって。そのときに、飛行機の中で飲んだスカイタイムっていうジュースが、とっても美味しかったって言ってた。ね、パパ。光穂も飲んでみたい。飛行機、乗ろうよ」

「ジュースを飲むために飛行機ねぇ」

私が苦笑したとき、妻が真を連れて戻って来た。

「あら、何の話?」

「よし、じゃあ、今年の夏休みは沖縄に行くか!」と大声で叫んだ。

毎年、お盆には店を休んで家族で旅行をしている。

「本当?やったぁ」と光穂が飛び上がって喜んだ。

そして、キョトンとしている弟に、「真、飛行機乗れるんだよ!スカイタイム、飲めるよ!」と言ってぎゅっと抱きしめた。

「え、飛行機?乗れるの?やったぁ!ぼくはね、コーラ、コーラがいいの!」

息子は特別な日にしか飲ませてもらえないコーラが大好きだ。

「お客さま、お飲み物はいかがいたしましょうか」

そっと声をかけられ、私は妻の頭ごしに見ていた雲海から機内へ目を戻した。

窓に顔を貼り付けるようにしていた妻がポツリと「スカイタイム」と呟いた。

「スカイタイムと…コーラを」きっと真ならそう頼んだだろうから。

益田という名札をつけたCAさんが、妻のテーブルにスカイタイムを、私のテーブルにコーラの入った紙コップを置いた。

そして、スカイタイムの入った紙コップを更に二つテーブルに置いた。

不思議に思い、顔を上げると、彼女は

「お子さまの分もと思いまして…よろしければ、どうぞ」と微笑んだ。

妻が手にしている二枚の写真が見えていたらしい。

初めて飲むスカイタイムは爽やかな、柑橘系の味だった。

「スカイタイム、美味しかったです」

「ありがとうございます」

感じのいい笑顔に、私はつい、

「娘が、幼稚園の友だちからスカイタイムというジュースがすごく美味しいって聞いてきましてね。飲みたがっていたものですから、じゃあ、夏休みに飲みに行こうねって約束してたんたんです」と言った。

過去形で話している自分に気付いて、私は口をつぐんだ。

そうだ、子どもたちの話はもう、過去形でしか話せないのだ。

永遠に。

「二人とも、去年の震災で」

ぽつんと呟くと、「それはざそかし…」と彼女は言葉を飲み込んだ。

そして、通路にそっとしゃがむと、私と視線を合わせた。

「お子さんのお名前、なんとおっしゃるんですか?」

「幼稚園っておっしゃっていましたけれど、光穂ちゃんが…?」

「ええ、そうです、5歳の年中さんで」

「じゃあ、真ちゃんは」

「3歳でした」

気がつけば、私は益田さんに子どもたちの話をたくさんしていた。

思い出すと辛くて、眠れなくなるほど苦しくなる子どもたちのことを、こうして楽しそうに話す自分が不思議でたまらなかった。

益田さんに釣られたわけではないけれど、現在形で子どもたちのことを話すと、まだ二人が生きているようにも思えてくる。

そう言うと、益田さんは優しく微笑んだ。

「だって、光穂ちゃんも真ちゃんも、お父さんとお母さんの中で生きておられるから」

私はハッと彼女の顔を見つめた。

いまのいままで、そんなふうに考えたことがなかった。

そんなふうに考えられる余裕がなかった。

益田さんは、手にしていた小さな紙袋を私に手渡した。

「これ、光穂ちゃんと真ちゃんに。どうぞ」

中を覗くと、クリアファイルやシールやボールペン、そして、かわいらしくラッピングされたキャンディの袋が二人分、入っていた。

子供用のノベルティらしい。

「光穂ちゃんと真ちゃんのご搭乗記念です」

と益田さんが微笑む。

「光穂。真。飛行機に乗れて、本当によかったね」

妻は二人にそうささやくと、写真をそっと紙袋の中へ入れた。

まるで光穂と真がグッズを嬉しそうに抱きしめているようだった。

一番最後に飛行機を降りた私は、見送りをしてくれている益田さんに両手を差し出した。

優しく握り返してくれた彼女に言う。

「ありがとうございました。子どもたちとの約束を果たすことができました」

「よかったですね」と頷いた益田さんは、労わるような目で私を見つめた。

「次回のご搭乗をお待ちしております」

この旅行が済んだら二人の下へ行こうとしていた私は一瞬、躊躇したけれど、「ええ、是非」と頷いた。

この1年間、生きる気力を失い、自分の殻に閉じこもりがちだった妻が、涙をこぼしながら、それでも笑顔で益田さんとしっかり目を合わせていた。

沖縄は快晴だった。

ホテルにチェックインした私は、「これで光穂と真との約束、果たせたね」と妻に笑いかけた。

「それで…どうする?」

この旅行が終わったら、子どもたちとの約束を果たしたら、後を追うつもりだった。

久しぶりの旅行で疲労の見える妻は、それでも家を発ったときよりもはるかに生気に満ちた顔で、首をゆっくり横に振った。

「やめておきましょう。だって、私たちがいなくなったら、誰があの子たちの話をするの?」

妻は自分の胸に手を当てた。

「ここに生きているあの子たちを、消すわけにはいかないもの」