羽田発、沖縄行きの機内でポーンと軽快な音がして、シートベルト着用のサインが消えた。
窓側に座った妻・友里は、待ちかねたようにバッグの中から写真を二枚、取り出した。
光穂(みつほ)と真(しん)の写真だ。
「光穂、真ちゃん。ほら、もう雲の上まで来たよ。飛行機に乗ってるんだよ。見える?」
目に涙をいっぱいためた妻が、小さな声で二人に語りかける。
妻はあの日以来、全く笑わなくなってしまった。
1年前の3月11日。
津波は、私と妻の大事なものばかり奪っていった。
家はもちろん、しっかり者の母、穏やかな祖母、そして二人のかわいい子どもたち。
私たち夫婦はあの日から抜け殻のようになってしまった。
たくさんのものがぽっかり抜け落ちた状態に耐え切れず、「みんなのところに行こう」と言い出したのはどちらだったか、覚えていない。
みんなのところへ行く前に、せめて子どもたちとの約束だけは果たそうと、私たちは沖縄行きを決めた…。
私たちは、海沿いの町から車で30分ほど走った商店街の一角でパン屋をしていた。
夫婦二人でもやっていけるほどの小さな店で、焼きたてのメロンパンと、妻が改良に改良を重ねたラスクが人気だった。
私と妻は毎朝、光穂や真が寝ている間に家を出ていた。
母と祖母がいるから、安心して子どもたちを任せられたのだ。
それに、朝は早いけれど、仕込みさえ終われば遅くない時間に帰ることができるから、子どもたちと触れ合う時間もちゃん取ることができる。
ある日、売れ残ったパンを手に玄関のドアを開けると、バタバタと子どもたちが走ってきた。
5歳の娘と3歳の息子がいつものように、「パパ、ママ、あのね…」と口々に話し始める。
私は光穂と一緒にリビングへ行った。
「ね…、パパ。スカイタイムって知ってる?」
「スカイタイム?」私は首を捻った。
「タイムっていうとハーブかな?」
「ちがーう」
「ええ?なんだろうースカイだから…空に関係してる?」
「ちょっとせいかーい」
「あのね、飲み物なんだよ。美味しいジュース!」
「へえ、新しいジュースが出たのか。幼稚園で飲んだの?」
ううん、と光穂は首を振った。
「スーパーとかには売ってないの。飛行機に乗ったら飲めるんだって、リオちゃんが」
リオちゃんというのは、光穂の一番仲のいい友だちだ。
「へえ。じゃあ、リオちゃん、飛行機に乗ったんだ?」
「うん、沖縄に行ったんだって。そのときに、飛行機の中で飲んだスカイタイムっていうジュースが、とっても美味しかったって言ってた。ね、パパ。光穂も飲んでみたい。飛行機、乗ろうよ」
「ジュースを飲むために飛行機ねぇ」
私が苦笑したとき、妻が真を連れて戻って来た。
「あら、何の話?」
「よし、じゃあ、今年の夏休みは沖縄に行くか!」と大声で叫んだ。
毎年、お盆には店を休んで家族で旅行をしている。
「本当?やったぁ」と光穂が飛び上がって喜んだ。
そして、キョトンとしている弟に、「真、飛行機乗れるんだよ!スカイタイム、飲めるよ!」と言ってぎゅっと抱きしめた。
「え、飛行機?乗れるの?やったぁ!ぼくはね、コーラ、コーラがいいの!」
息子は特別な日にしか飲ませてもらえないコーラが大好きだ。
「お客さま、お飲み物はいかがいたしましょうか」
そっと声をかけられ、私は妻の頭ごしに見ていた雲海から機内へ目を戻した。
窓に顔を貼り付けるようにしていた妻がポツリと「スカイタイム」と呟いた。
「スカイタイムと…コーラを」きっと真ならそう頼んだだろうから。
益田という名札をつけたCAさんが、妻のテーブルにスカイタイムを、私のテーブルにコーラの入った紙コップを置いた。
そして、スカイタイムの入った紙コップを更に二つテーブルに置いた。
不思議に思い、顔を上げると、彼女は
「お子さまの分もと思いまして…よろしければ、どうぞ」と微笑んだ。
妻が手にしている二枚の写真が見えていたらしい。
初めて飲むスカイタイムは爽やかな、柑橘系の味だった。
「スカイタイム、美味しかったです」
「ありがとうございます」
感じのいい笑顔に、私はつい、
「娘が、幼稚園の友だちからスカイタイムというジュースがすごく美味しいって聞いてきましてね。飲みたがっていたものですから、じゃあ、夏休みに飲みに行こうねって約束してたんたんです」と言った。
過去形で話している自分に気付いて、私は口をつぐんだ。
そうだ、子どもたちの話はもう、過去形でしか話せないのだ。
永遠に。
「二人とも、去年の震災で」
ぽつんと呟くと、「それはざそかし…」と彼女は言葉を飲み込んだ。
そして、通路にそっとしゃがむと、私と視線を合わせた。
「お子さんのお名前、なんとおっしゃるんですか?」
「幼稚園っておっしゃっていましたけれど、光穂ちゃんが…?」
「ええ、そうです、5歳の年中さんで」
「じゃあ、真ちゃんは」
「3歳でした」
気がつけば、私は益田さんに子どもたちの話をたくさんしていた。
思い出すと辛くて、眠れなくなるほど苦しくなる子どもたちのことを、こうして楽しそうに話す自分が不思議でたまらなかった。
益田さんに釣られたわけではないけれど、現在形で子どもたちのことを話すと、まだ二人が生きているようにも思えてくる。
そう言うと、益田さんは優しく微笑んだ。
「だって、光穂ちゃんも真ちゃんも、お父さんとお母さんの中で生きておられるから」
私はハッと彼女の顔を見つめた。
いまのいままで、そんなふうに考えたことがなかった。
そんなふうに考えられる余裕がなかった。
益田さんは、手にしていた小さな紙袋を私に手渡した。
「これ、光穂ちゃんと真ちゃんに。どうぞ」
中を覗くと、クリアファイルやシールやボールペン、そして、かわいらしくラッピングされたキャンディの袋が二人分、入っていた。
子供用のノベルティらしい。
「光穂ちゃんと真ちゃんのご搭乗記念です」
と益田さんが微笑む。
「光穂。真。飛行機に乗れて、本当によかったね」
妻は二人にそうささやくと、写真をそっと紙袋の中へ入れた。
まるで光穂と真がグッズを嬉しそうに抱きしめているようだった。
一番最後に飛行機を降りた私は、見送りをしてくれている益田さんに両手を差し出した。
優しく握り返してくれた彼女に言う。
「ありがとうございました。子どもたちとの約束を果たすことができました」
「よかったですね」と頷いた益田さんは、労わるような目で私を見つめた。
「次回のご搭乗をお待ちしております」
この旅行が済んだら二人の下へ行こうとしていた私は一瞬、躊躇したけれど、「ええ、是非」と頷いた。
この1年間、生きる気力を失い、自分の殻に閉じこもりがちだった妻が、涙をこぼしながら、それでも笑顔で益田さんとしっかり目を合わせていた。
沖縄は快晴だった。
ホテルにチェックインした私は、「これで光穂と真との約束、果たせたね」と妻に笑いかけた。
「それで…どうする?」
この旅行が終わったら、子どもたちとの約束を果たしたら、後を追うつもりだった。
久しぶりの旅行で疲労の見える妻は、それでも家を発ったときよりもはるかに生気に満ちた顔で、首をゆっくり横に振った。
「やめておきましょう。だって、私たちがいなくなったら、誰があの子たちの話をするの?」
妻は自分の胸に手を当てた。
「ここに生きているあの子たちを、消すわけにはいかないもの」