結果や報酬を目的として生きればいい。
これこれの収入を得るためにこの仕事をする。
この会社に入る、実入りを期待して誰々と親しくする。
実際、そういう人は多いのだが、最終的な目的が報酬なのだから、そこにたどりつくまでの事柄や関係のいっさいが手段や道具となるわけだ。
途中の過程で起きることも出会う人も、自分にとっては報酬までのプロセスという意味しか持たない。
本当に意味があるのは想定してある結果や報酬だけである。
こういう人生がはたしてどういうものであるのか、収入のために仕事をしている人の顔を見ればありありと表れている。
少年少女が周囲の期待する「いい子」を演技するのも、結果を想定しての行動である。
それを引き起こしているのは本人ではなく、周囲の大人たちである。
大人たちが結果にしか意味を見出さない考え方なので、少年少女たちはあえてそれに応えようとするわけだ。
そして彼らはいつかその欺瞞に耐えきれなくなり、彼らなりに失踪(しっそう)する。
それは反抗ではない。
地獄からの脱出なのだ。
何をするにしても人間は結果のために行動すると、結局は日々の意味を失い、総じて生きることの意味を失う。
意味を失うことは死だと直感的に感じるから、その恐怖を何かへの沈溺(ちんでき)によってごまかすしかなくなる。
ドラッグや遊興(ゆうきょう)はもちろん、老人になって趣味やスポーツ、旅などで自分の不安定な心をまぎらわしている人もいるのだ。
地獄の入口とは架空のことではない。
結果と意味を同じだとする安易な考え方なのである。
◇
旅の楽しさは、どこへ行くかではなく、「誰と行くのか」によって決まるという。
気の合った人と体験する、途中の寄り道や珍道中が面白く、楽しいのだ。
食事も同じで、どこで何を食べるのかではなく、「誰と食べるのか」によって決まる。
どこへ行くという、結果を目的として行動すると、あとのことはすべて手段や道具となる。
誰と行こうが、どんなところに泊まろうが、交通も、食事も、すべて手段であり道具。
「できるだけ最短で」とか、「できるだけ安く」といった、効率や、損得が重視される。
本当は、楽しむために行く旅なのに…。
人生という旅もこれと同じで、つまらなくするのは簡単。
人生という旅を少しでも楽しみたい。