ある病院に、頑固一徹で、ちょっと世をすねたおばあちゃんの患者がいました。
家族から疎まれていたせいでしょうか。
看護婦さんが、優しくしようとしても、なかなか素直に聞いてくれません。
「どうせ、すぐにあの世にいってしまうのだから」と、かわいげのないことばかり口にします。
困り果てた看護婦さんが、機嫌のよいときを見計らって、毎朝、病院の窓から見える、通勤の工員さんたちに、手を振ってごらんなさいと言いました。
どういう風の吹き回しか、おばあちゃんは、朝、ベッドの上に身を起こし、言われる通りにしてみました。
中には知らぬ顔をして通り過ぎる工員さんもいましたが、何人かは手を振って返してきました。
その反応がうれしかったのか、おばあちゃんは、毎朝、病院の近くに出勤する工員さんたちにあいさつをするのが日課になりました。
工員さんたちの中にも、病院の前に差しかかるとき、決まって窓を見上げるひとが多くなりました。
「ばあちゃん、おはよう」、言葉はお互いに聞き取れなくても、心は十分に通い合いました。
まるで嘘のように、おばあちゃんの表情には笑顔が戻ってくるようになりました。
看護婦さんたちとも打ち解け、態度からケンがなくなりました。
しかし、病気はだんだん重くなります。
それでも、おばあちゃんは朝を迎えると、手を振ろうとします。
まるで生きている証でもあるかのように、日課を続けようとしました。
おばあちゃんは、亡くなりました。
今度は、工員さんたちが淋しい思いをする立場になりました。
訃報を聞き、その鉄工所に勤める工員さんたちは、病院の近くに集まり、おばあちゃんが毎朝手を振ってくれた窓辺に向かい、深々と黙祷を捧げたそうです。
私は、この話を聞いて胸が詰まりました。
このエピソードに、老人問題のすべてがあると思ったのです。
老人の淋しさとは、何からくるのでしょうか。
ひとり暮らし?
いいえ、それ以上に、老人の存在価値の希薄さからです。
少なくとも、私はそう思います。
「おじいちゃんがいてくれたから、よかった」とか「おばあちゃんの笑顔がかわいい」 など、老人の存在価値がどんな形ででもあれば、たとえひとり暮らしをしていても、救われるのではないでしょうか。
ところが、「老人のあんたたちは、いつ死のうが、いなくなろうが、世の中の動きとは関係ないんだよ」というのが現代の風潮です。
これが、老人の孤独感に拍車をかけているのではないでしょうか。
インドのカルカッタに住んで、貧しいひとびとのために命を賭けて奉仕しておられる尼僧に、マザー・テレサという方がいらっしゃいます。
その立派な功績により、ノーベル平和賞を受賞されたのですが、そのときの言葉に
「天然痘も癌も脳卒中も、決して怖い病気ではありません。
本当に怖い病気とは、あなたのような人間がこの世にいてもいなくてもいいのですよ、といわれたときの孤独です。
この病気ほど怖いものはないのです。
この病気を治す病院も薬も今はないのです。この病気は、外の優しい心でしか癒すことができないのです」
とあります。
ひとりの人間が生きていくためには、たくさんの見えない支えがあり、自分が生きることがまた多くのひとびとの支えでなければいけないはずなのです。
にもかかわらず、私たちは自分だけで生きているような気になって、孤独を味わっているひとの存在に気が付かなくなっているのではないでしょうか。
また、そういう自分自身も孤独の中にいることを忘れているのではないでしょうか。
《温かさ、親切、そして友情は、世界中の人がもっとも必要としているものだ。 それらを与えることのできる人は、決して孤独にはならない。》 (アン・ランダース/米国の女性人生相談コラムニスト)