2008年2月5日火曜日

自分のこととして考える

今日は大変気持ちのいい日記が書けます。

最近、友人宅で、ある小学校の学校新聞を目にする機会がありました。その中には、小学1年生の書いた日記と、日記を読んだ先生の感想が書かれてありました。

私がいろいろと講釈を述べる前に、まずは読んでいただいた方がいいと思います。
原文(抜粋)のままご紹介します。皆さんはどうお感じになりますか。


先日、2人の子が同じ日に同じ内容の日記を書いていました。下校途中のバスでの出来事でした。

【Aさん】
きょう、バスの中でかなしいことがありました。
それは、小学校のおにいちゃんがバスの中で、ていきいれをなげあいっこしたり、ゆかにふざけてなのかわからないけど、ねっころがっていました。
わたしはとてもかなしいです。
だって、バスのうんてんしゅさんも、しんぱいになるから、わたしはやめてもらいたいです。
【Bさん】
今日は、かえりのバスできけんなことがありました。
それは小学校のおとこの子がバスの中で、ていきをつかってあそんでいました。
どんなあそびかというと、ていきいれをなげていたり、ふりまわしてあそんでいました。
でも、わたしがとめられなかったのもありました。
これからは、わるいことをしているおともだちがいたら、とめてあげたいです。

Aさんも、Bさんも同じバスに乗っていて、同じ出来事を見て感じたことを書いていたのです。

バスのの中でふざけることが悪いということは、誰もがわかっていることです。
しかし、その場の雰囲気に流されてしまい、周りの人のことが見えなくなってしまったのが、この日記に登場した「お兄ちゃん」でした。
人間は弱い存在ですから、楽な方や楽しい方に流されがちです。だからこそ、社会で守るべきルールやマナーを決めているのだと思います。

しかし、この日記を書いた2人は、バスの中でのルールやマナーだから守るのではなく、それらの意味をしっかり理解しています。そして「自らに引き寄せて考えている」のです。

その証拠にAさんは「わたしはとてもかなしいです。」と表現し、Bさんは、「わたしがとめられなかったのもありました。」と書いています。

「バスの中でふざけている人がいる。でも、私は静かに座っているからいい」と考えても何ら問題はないように思います。どちらかと言えばそう考える方が一般的でしょう。しかし、この2人は違いました。

この2人の日記を読んだとき、2人に落ち度はないのに、これほどまでに自分に問題を引き寄せて考えることができる、ということに驚かされました。そして、この姿をとても嬉しく思いました。

私達が大切にしていることは、「人間誰にでも間違いはある。だからこそ、気づいた人が教えてあげられればいい。それを相手にわかるように教えてあげられるのが友達だ」ということです。

大切なことは、その伝え方が相手の心に響くものであるかどうか、受入れられるものであるかどうかだと思います。そして注意された側は、その間違いに気づいた後に、どう行動するかということが重要になってくると思います。

つまり、目の前で起こった問題(それが自分にとって何の関係もないように思えることでも)をどれだけ自分に引き寄せて考えることができるかということなのです。それはとても難しいことですし、大人でもなかなかできることではありません。
しかし、問題を自分に引き寄せて考えることから、その問題の解決への糸口が見つかってくるのではないかと思うのです。

この2人の姿から、私達が求めている子どもの姿を垣間見ることができます。
「私は関係ない」ではなく、「自分に何ができるか」を考えることのできる子どもが育っていることを心から嬉しく思いました。


いかがでしょうか。私は読んでいて目頭が熱くなりました。最近のすさんだ世の中で、とても感動深い話ではないでしょうか。

私達大人の多くは、毎日ゆとりのない生活に追われていますが、この新聞に描かれた「小学生の純粋な心」は、人間として決して失ってはいけない大事なものを教えてくれたような気がします。

わずか6~7歳の子どもでも気づく当然のことを、私達大人はいつのまにか忘れてしまっているのではないでしょうか。無限の可能性を秘め、将来ある子ども達の手本となる生き方を私達大人はしているのでしょうか。

目の前にある問題の先送りや、問題を遠ざけることを優先して考え行動することをしてきた大人は少なくないと思います。
「『私は関係ない』ではなく、『自分に何ができるか』を考えることのできる人間」を私達はどれだけ実践してきたでしょうか。

この学校新聞は、自分自身を見つめ直す機会を与えてくれました。
これからは、この小学生の心に立ち返って、何事に対しても「自分のこととして考える」勇気を持って生きていきたいと正直に思ったのでした。