私事ながらこの日は、娘の誕生日に当たり、我が家では毎年誕生会を兼ねた夕げの中で、尊い命を落とされた多くの戦没者の方々に対し黙祷を捧げることにしています。
さて「沖縄慰霊の日」とはどういう日なのか、以外とご存じない方が多いようです。平和というものにどっぷりと浸りきった現代の生活の中では、64年前、住民の4人に1人という多くの犠牲者を伴い終結した沖縄戦の悲惨さや冷酷さを感じ取ることはなかなかできません。
私達が享受している何不自由なく満たされた生活は、戦争終結を起点とした多くの先人達の努力の蓄積の上に成り立っていることを決して忘れてはなりません。
さらに重要なのは、悲惨な戦争を終結に至らしめたのは、アメリカ軍の本土上陸を盾となって阻止した沖縄戦における多くの「沖縄の人々の落命」によるものであることを、いかなる時代変化があろうとも決して忘れてはならないということです。
64年という歳月とともに、戦争体験を後世に伝えることが次第に難しくなってきました。「語り部」の高齢化、開発による戦跡の荒廃と消滅等々。一方、沖縄には2500トンもの不発弾が未だに眠っており、その処理にはあと80年もの時間が必要だそうです。残存した米軍基地の問題も含め、沖縄にとって戦争はまだ終わっていないのです。
私達は、戦争という名の大量殺戮という重犯罪を二度と起こさないこと、そして「命(ぬち)どぅ宝」という沖縄の言葉に託された多くの戦没者の願いをいつまでも子孫に伝え続けることを通じて、人としての責任を全うする義務があります。
多くの関連記事の中から、個人的に気になったものをご紹介します。
◇
あす「慰霊の日」:5大学1129人、3割「由来知らない」(2009年6月22日 毎日新聞)
23日の「慰霊の日」を前に琉球新報社は16日から4日間、県内4年制総合5大学の学生(1129人)を対象に沖縄戦について知識や意識を問うアンケートを実施した。その結果、沖縄戦を学ぶことは99.4%が「大切」と答えた一方、牛島満司令官が自決した日として定められた「慰霊の日」の由来を「知らない」と答えた学生が29.4%に上ったほか、今年は沖縄戦終結から何年かとの質問で「64年」と正しく回答できたのは61.6%にとどまった。沖縄戦の体験継承に関心や意欲が強い一方で基礎的知識に課題があることが浮き彫りになった。・・・
http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20090622rky00m040002000c.html ]
◇
64年目の慰霊の日 被害と加害の再現許すまじ 「反軍隊」は譲れない一線(2009年6月23日 琉球新報社説)
県内5大学の学生に琉球新報社が実施したアンケートで、99%が沖縄戦を学ぶことは「大切」と答えたが、戦後の年数の正答は6割にとどまった。沖縄戦から64年の「慰霊の日」に沖縄戦を語り継ぐ意義を考えたい。
アンケートでは日本兵の住民虐殺について学生の87%、学徒動員は93%が知っていた。「集団自決」について84%が「日本の軍事下で追い詰められた死」を選択し、教科書の「日本軍の強制」削除も9割が知っていた。
知識不足の面もあるが、沖縄戦の本質への大まかな理解と平和を守る意識の高さをうかがわせる結果だ。
語り継ぐ沖縄戦教訓
沖縄戦については1971年の県史「沖縄戦通史」を皮切りに多数の市町村・字史が出版された。多くの県民の悲惨な体験が掘り起こされ、沖縄戦研究の成果が学校の平和教育に生かされた。
体験者の減少とともに「沖縄戦の風化」が懸念されている。その中で沖縄戦を忘れまいとする体験者の強い意志と、研究者や学校現場の取り組みが沖縄戦の教訓を次世代に伝えている。
本紙の連載「語らねば、今こそ」は、長く胸に秘めたつらい沖縄戦体験を、高齢を迎え語り出した人々の思いを伝えた。
沖縄師範健児之塔の慰霊祭は遺族の高齢化で2006年が最後となっていたが、仲田英安さん(34)ら若い世代の遺族を中心に今年から復活する。
活動が活発な遺骨収集ボランティア団体「ガマフヤー」の代表具志堅隆松さん(54)も戦争体験者の第2世代だ。
“風化”を乗り越え、沖縄戦体験者から次世代に継承される沖縄戦の教訓、反戦平和の思想はどのようなものか。
沖縄戦は本土決戦の時間稼ぎのための「捨て石作戦」として県民に多大な犠牲を強いた。日米両軍の激戦が住民を巻き込み、20万人余に上る犠牲者数の多さ、日本兵の住民虐殺、日本軍が関与した住民の集団自決(強制集団死)などが特徴といわれる。
「日本軍の加害」の記憶は県民に軍隊と戦争への深い嫌悪を抱かせ、「反戦・反軍隊」の県民感情を根付かせた。
軍隊への根強い不信感は「軍隊は住民を守らない」、また何よりも命を尊ぶ「命(ぬち)どぅ宝」の言葉が定着している。
県民の「反戦・反軍隊」の思いを象徴するのが「平和の礎」だ。県民、日本軍、国籍、敵味方の区別もなく、すべての犠牲者の名前を刻み、平和を祈念している。
軍隊を憎みながらも、戦没した一人一人の兵士を戦争の犠牲者として悼んでいるのである。
「反戦・反軍隊」と「命どぅ宝」の思想の結実といえよう。
しかし筆舌に尽くせぬ戦争体験を通し県民が培った「反戦・反軍隊」の思いは、「基地の島沖縄」の現実に裏切られ続けている。
軍事同盟の危うさ
ベトナム戦に嘉手納基地からB52爆撃機が出撃し、沖縄はベトナムへの加害に加担する「悪魔の島」と呼ばれた。復帰後も広大な基地は存続し、湾岸戦争やイラク戦争に戦闘機やヘリが出撃した。
1990年代の日米安保再定義から21世紀の在日米軍再編で、日米の軍事協力の対象が極東から世界に広がったといわれる。
米軍再編に伴う沖縄の負担軽減は虚飾でしかなく、日米が軍事一体化する再編強化が進んでいる。
政府の新「防衛計画の大綱」方針は中国の軍事台頭や北朝鮮の核、ミサイル開発をにらみ「敵基地攻撃能力」をも検討するという。
北朝鮮の動向など国際情勢によっては、再び沖縄が加害の出撃基地となりかねない。
沖縄が「敵基地攻撃」の拠点とみなされ、相手国の攻撃の被害を受ける可能性も否定できない。
日本国憲法は戦争と武力行使の放棄を誓う。無軌道な軍事国家として太平洋戦争に突き進んだ反省に立つ憲法は、沖縄の「反戦・反軍隊」の思想に通じる。
広島、長崎が原爆被爆の体験から核廃絶運動の拠点となったように、住民を無差別に巻き込む悲惨な地上戦の犠牲となった沖縄は、あらゆる戦争に反対する普遍的な反戦平和運動の拠点となる資格と責務を負う。
沖縄が再び「被害」「加害」の地とならぬよう「反戦・反軍隊」の思いをかみしめたい。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-146221-storytopic-11.html
◇
沖縄戦の記憶-「声の礎」を刻み続けたい(2009年6月25日 朝日新聞社説)
太平洋戦争末期、沖縄で繰り広げられた地上戦は、「鉄の暴風」と形容されるほどの凄惨(せいさん)を極めた。
その体験から、戦争の愚かさ、命の大切さを学ぼうと沖縄を訪れた修学旅行生は、07年の統計で43万人を超す。なかでも東京都世田谷区の和光小は、22年前から毎年訪れている草分けだ。
「壕(ごう)の中は血や尿のにおいが充満し……」。ガマと呼ばれる洞穴の体験を語る元ひめゆり学徒隊の宮良ルリさん(82)の話に、昨年訪れた児童は「耳をふさぎたくなりました」と記した。
米軍が最初に上陸した慶良間諸島では、宮里哲夫さん(74)の目撃談を聞いた。小学校の校長先生が妻の首をカミソリで切り、自らも命を絶った。「集団自決」である。
児童らは「戦争は人が人でなくなるという意味がわかりました」などと、大変な衝撃を受ける。それは毎年の卒業生の心に、おそらくその後の人生にも消えない深い印象を刻む。そう行田稔彦校長(61)は話す。
だが、戦争体験者の話をじかに聞ける歳月はもう残り少ない。戦争の記憶がある年齢を5歳とし、平均寿命を考えると18年には証言者がいなくなると心配する声もある。確実にやってくるその日をにらみ、記憶をひき継ぐいくつもの試みが始まっている。
沖縄で修学旅行をガイドする「沖縄平和ネットワーク」は、かつての戦場を背景に、体験者の証言を映像と音声で残す取り組みを進める。
20周年を迎えた「ひめゆり平和祈念資料館」も証言員が開館時の28人から17人に減った。元学徒の一人ひとりが戦場跡で、戦後世代の説明員らに証言するところを映像に記録している。
動画と音による記録には、言葉と言葉の間の沈黙など、活字では伝えきれない雰囲気や感情が刻まれる。
戦争体験を肉声でビデオに記録する試みは県平和祈念資料館が一足早く着手した。提唱したのはジャーナリストの森口豁(かつ)さん(71)だ。戦死者名が刻まれた「平和の礎(いしじ)」になぞらえて「声の礎」運動という。これまでに580人分の証言映像を公開している。さらに広げてほしい取り組みだ。
一昨日の「慰霊の日」をはさんで今週、沖縄は64年前のあのすさまじい日々と失った肉親たちを改めて思う。
県民の4人に1人が犠牲になった末に沖縄は占領され、いまも米軍基地が広がる。基地の縮小は遅々として進まない。各地で遺骨収集が続くが、4千人余りの遺骨が未発見のままだ。地中には不発弾も多数残り、処理を終えるまで70年はかかるとされる。
戦争とは何か。今も世界各地にある戦争や紛争とどう向き合うべきなのか。沖縄戦の記憶を共有し、それを学ぶことは、国のゆくえを見定めるうえでも欠かせない。
http://www.asahi.com/paper/editorial20090625.html#Edit1
◇
平和の砦(2009年6月26日 毎日新聞)
「沖縄慰霊の日」が今年も巡ってきました。唯一の地上戦だった太平洋戦争末期の沖縄戦。約90日間に及ぶ戦闘は64年前の6月23日、約20万人の命とともに組織的戦いを終結しました。1996年夏、米兵による少女暴行事件がきっかけで行われた県民投票の取材で沖縄へ。その時聞いた「ひめゆり学徒隊」の元学徒の証言を思い出しました。
<1945年6月18日、突然日本軍から解散命令があった。自由行動せよというのだ。19日未明、第三外科壕(ごう)(沖縄県糸満市)との別れの時がきた。学徒ら51人の「最後の分散会」。全員で「ふるさと」と校歌を合唱した。誰の目にも涙があふれた。うっすらと夜が明けはじめたころ、米軍による投降を呼びかける日本語が聞こえた。学友に「奥へ!」と声をかけながら進んだ途端、爆音とともに白い煙が一帯を包み込んだ。「ガスだ」「おかあさん」「早く殺して」「先生、苦しい」。たくさんの叫び声がこだまする。泥の中に顔を突っ込み、意識を失った。目が覚めると生き残ったのは5人。捕虜になり、母や妹を思う日々。そして終戦。だが、あれほど会いたかったのに、生き残ったことをどう説明すべきなのか、複雑な気持ちになった・・・>
ひめゆり隊は、那覇市内の沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒たち222人と教師18人。この年の3月に、南風原(はえばる)陸軍病院に動員され、負傷兵の救護などに当たってきましたが、戦局は悪化し、本島南部へと撤退。いくつかの壕ごとに分散していました。
犠牲者はもちろん、ひめゆり隊だけではありません。いまだに「戦争がこびりついて(頭から)離れない」と、阪神支局の中里顕記者に語った尼崎市の83歳の女性は、県立第二高等女学校の「白梅学徒隊」でした。このほか県立首里高等女学校の「ずいせん学徒隊」、県立第三高等女学校の「なごらん学徒隊」……。解散命令が出た日までの犠牲者は21人だったのに、戦場に放り出された結果、戦争終結の23日までのわずか数日間で約200人の夢と希望が消えたのです。
1989年の慰霊の日に第三外科壕のすぐ横に「ひめゆり平和祈念資料館」は設立されました。平和の砦(とりで)は今年開館20周年を迎え、特別企画展をしています。一方で元学徒は確実に高齢化していきます。20歳代の中里記者が本紙「記者が行く」で元学徒の証言を伝えたように、世代を超えてその思いを受け継がなければなりません。最後に手元にある設立当初の元学徒たちの文章を紹介します。
<私達(たち)は、真実から目を覆われ、人間らしい判断や思考も、生きる権利さえももぎ取られ、死の戦場に駆り立てられた、あの時代の教育の恐ろしさを、決して忘れません。私達は、戦争体験を語り継ぎ、戦争の実相を訴えることで、再び戦争をあらしめないよう、全力を尽くしたいと思います>
http://mainichi.jp/area/hyogo/letter/news/20090626ddlk28070402000c.html
◇
沖縄慰霊の日(6月23日)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/okinawaireinohi.htm
◇
沖縄戦集団自決「チビチリガマ」の特集(NHK)
「沖縄集団自決 旧日本兵の証言」(報道ステーション)