平日は予算委員会で忙しく、ブログを書く時間もありません。週末に福岡に戻った時の早朝や深夜にしかブログを更新する時間もない日々が続きます。予算委員会が終われば少しはマシになると願いつつ、今日は移動中に読んだ本の感想文です。
知り合いの大学の先生が推薦されていた本、「反教養の理論:大学改革の錯誤」は、ぜひ安倍総理にお読みいただきたい本です。著者のコンラート・P・リースマンは、ウィーン大学の哲学の教授です。この本は、ドイツ語圏で2006年に出版されて各国語に翻訳されています。
近年の日本の「大学改革」や「教育改革」のことを言っているのかと錯覚しそうなほど、日本とドイツ語圏の大学教育をめぐる状況は似ています。新自由主義的な「大学改革」や「教育改革」は、ドイツやオーストリアの大学でも日本と同様に進行していることがわかります。そして同じような弊害をもたらしていることもわかります。
著者は、競争や評価を導入し、経済効率を重視して、目先の短期的な研究成果に力を入れることが、大学教育の質を落とすことにつながると指摘します。皮肉なことに「新自由主義的な大学改革」が、「学問の自由」をおびやかすという矛盾が生じます。ぜんぜん「自由」ではないのが、新自由主義的な教育改悪だといえます。
たとえば、安倍政権は、日本の大学の世界ランキング入りを教育政策の目標にしています。しかし、世界ランキングというものがいかにあてにならないかは私も以前から主張してきました(*下記のブログ参照)。リースマン氏も同意見だったので、意を強くしました。リースマン氏はこう言います。
ランキングのフェティシズム化は反教養に特有の現象形態、すなわち判断力の欠如の表れであり兆候である。
*2016年6月24日付ブログ「大学の世界ランキングに意味はあるのか?」
英国の企業や出版社が出す「大学の世界ランキング」などというものは、英語圏の大学が圧倒的に有利です。理工系ならともかく、人文系の学問では比較のしようがないものを無理やり比較している点にそもそも無理があります。
世界ランキングの順位をあげるためには、外国人教員の比率を上げ、外部資金を獲得し、英語で論文をバンバン書かせる必要があります。しかし、言語のちがいが重要な意味をもつ人文系の学問では意味のない指標ばかりです。例えば、日本文学を研究する学科において、英語の論文引用数や外国人教員比率に意味があるとは到底思いません。
人文系ではそれほど外部資金も必要なく、英語で論文を書く必要もありません。母語で大学教育を受けられない国は数多いですが、日本やドイツ、フランス、ロシア等では母語で高度な研究もできるため、英語の論文引用数を競う意味はあまりありません。いわば「英語帝国主義」に染まる必要などありません。
最終章のタイトルは「教育改革との決別」という刺激的なタイトルです。リースマン氏は同章を「教育改革とともに教育が崩壊していく」と言います。市場競争を志向する教育改革が、「改革」という名のイデオロギーと化し、既存の学問体系を破壊していると指摘します。日本のことではないかと思うのが以下の記述です。
われわれの時代の改革者が為しているのは、その根本において改革ではなく転覆である。普段の会話から選挙戦略に至るまで、状況をむしろ慌ただしく唐突に転倒しようという雰囲気がすべてを支配し、時にはちょっとしたクーデターの気配すら漂い、法案は「強行採決」され、そしてその後で改革好きのメディアが書き立てるように、多くのことが「奇襲攻撃のごとく」やってくるのである。実際のところ現代の改革者は手早く事が進むことを好む。何であれ事柄が迅速に進行すればするほど、それだけいっそう良いこととされるのである。
オーストリアの国会でも「強行採決」という言葉を使うとは知りませんでした。しかし、日本と状況が似ていることがよくわかります。大学教育の「改革」の名のもとに、コスト削減、効率性アップ、市場競争力の向上、透明性の確保などが求められますが、長期的に見て大学教育の質の向上につながっているのか疑問です。
安倍政権の「大学教育改革」においては、人文系学問や教員養成課程が削減のターゲットにされています。理工系においては、基礎科学は軽視され、応用研究ばかりに予算がついています。応用研究であれば、あやしげなスパコンでも何十億円もの予算がかんたんにつきます。
リースマン氏の表現を借りれば「改革の狂信者」たちが、大学教育を良い方向にもっていっているか疑問です。立ちどまって昨今の「教育改革」を考え直すために、お薦めの本です。
*コンラート・P・リースマン「反教養の理論:大学改革の錯誤」2017年 法政大学出版局
反教養の理論:大学改革の錯誤【書評】|山内康一ブログ から