2019年6月23日日曜日

記事紹介|道をつくった人は、道をつくろうと思った人である。

「一源三流」とは、よく剣道や武士道において使われる言葉だ。

投資の神様、ウォーレン・バフェットは「誠実さ」についてこう語る。

『私は人を雇う際、3つの条件で判断する。

第一が人間としての誠実さ。

第二が知性、そして第三が行動力だ。

ただし第一の条件が欠けると、他の二つはその人を滅ぼす凶器と化す。』

汗を流すとは、勤勉であるということ。

もし、少しでもましな人間になろうと思うなら、凡人は、コツコツと日々努力する以外にはない。

また、涙を流すとは、人のために涙を流すことだ。

どんなに頭がよかろうが、「情」のない人間は人からは好かれない。

血を流すとは、身を削って、努力すること。

本気になることだ。

死に物狂いになって取り組めば、どんなに厳しい道であろうとそこに一筋の光を見ることはできる。

「一源三流」の道を歩みたい。

2019年6月22日土曜日

記事紹介|最後の言葉

アメリカの9.11の後、世界中が涙したあまりにも有名な詩がある。

あなたがドアを出て行くのを見るのが

最後だとわかっていたら

わたしは あなたを抱きしめてキスをして

そしてまたもう一度呼び寄せて

抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが

最後だとわかっていたら

わたしは その一部始終をビデオにとって

毎日繰り返し見ただろう


朝いつものように家を出たときにかけた言葉、かけられた言葉が、

もしかしたら最期の言葉になるかもしれない。

いつかは分からないけれど、誰にでも必ず訪れる出来事でしょう。

だからこそ、別れ際に笑顔で、気分を良くして、良い言葉で元気に挨拶を交わすことが大事なのですね。

忙しい朝の感情のままに家を出てきてしまっていることはありませんか?

喧嘩をしたまま家を出てしまったことはありませんか?

そんな時はこの詩を思い出して、

一度戻ってでも愛のある言葉を交わしてから出掛けるようにすると良いでしょう。

結果としてそれが良い一日のスタートにも繋がるから。

2019年6月21日金曜日

記事紹介|解決策を持たなければ、あなた自身も問題の一部である

Pは「それは私にやらせて下さい」と言う
Nは「それは私の仕事ではありません」と言う

Pは「難しいが、多分出来ると思う」と言う
Nは「可能性はあるが、多分ダメだと思う」と言う

Pは常に解決策を持っている
Nは常に言い訳を持っている

Pはすべての問題に対して答えを見い出す
Nはすべての答えに対して問題を見い出す

Pは常に答えの一部になっている
Nは常に問題の一部になっている


ここまで読んでくるとPとNがそれぞれ何を示すのかはお分かりでしょう。

PはPositiveタイプ、NはNegativeタイプを指します。

自分としてはPタイプのつもりでいても、

実際に口から出る言葉はNタイプになっていないでしょうか?

「すべての答えに対して問題を見い出す」とは、

いつも批判ばかりして代案がないという状態なのでしょう。

「問題の一部になっている」とは別の言葉で言い換えると

『解決策を持たなければ、あなた自身も問題の一部である』

という言葉に通じます。

やってみるという具体的な行動がPとNを分ける境界線なのかもしれません。

記事紹介|尊い生き方

「さんとう」という言葉がある。

電力の鬼と言われた 松永安左エ門の言葉だ。

「闘(とう)病、投(とう)獄、倒(とう)産」のような大きな挫折を味わったことのない人間は、大したやつにはならない、ということ。

大きな挫折にあったときの態度や行動言動が、「人物」であるかどうかを決める。

最後の最後まで投げ出さずに努力や勉学の情熱を燃やし続けるのか、はたまた自暴自棄になってやる気を失うのか。

「たとえ明日、地球が滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える」

という マルティン・ルターの言葉がある。

たとえ、明日地球が滅びようとも、未来のために木を植える人でありたい。

2019年6月20日木曜日

記事紹介|かけがえのない命

私は小中学校時代、いじめにあい大変苦しい思いをしました。

共働きの両親は、私の寂しさを紛らわせようと、望む物は何でも買ってくれ、何をしても叱ることはありませんでした。

しかし、独りぼっちのつらさはつのるばかり。

「どうして私だけがこんな目に遭うの、なぜ私を産んだの」

何度も、母の胸をたたいたものです。

循環器系が悪い母は、美容師の仕事の合間に病院へ通っていました。

苦しい時も、私の前ではいつもほほえみ、

「我慢して頑張れば、必ずいいことがあるから」

と励ましてくれるのですが、私は落ち込む一方でした。

ある時、いつものように遅い両親の帰りを待ちながら、

「このまま死んでしまいたい」

と叫ぶと、側にいた祖母が、たまりかねて言ったのです。

「お母さんがどんな思いで、産んでくれたと思っているの?

お母さんはね、おまえを身ごもった時、お医者さんから、

『この子を産んだら、あなたは100パーセント死にます。いいのですか。まだ遅くはありません』

と言われ続けていたんだよ。

それでも最後まで、

『死んでもいいから産みます』

と言って産んでくれたんだよ」

大変なショックでした。

その夜、母に尋ねました。

「どうして今まで言ってくれなかったの」

相変わらず母はほほえんで、

「今、尚子が元気なら関係ないことだからよ。

尚子もお母さんになれば分かるよ」

と言うばかり。

一体どんな思いで出産に踏み切ってくれたのか。

生まれてくる私の命に人生のすべてを賭けてくれた母。

そう知らされた時、胸が詰まり、かけがえのない命をなんと粗末にしていたのかと、

反省せずにおられませんでした。

2019年6月19日水曜日

記事紹介|人の使命とは 自らが笑顔で生き、周囲の人々も 幸せにすること

神が置いてくださったところで
咲きなさい

仕方がないと諦めてでなく

「咲く」のです。

「咲く」ということは

自分が笑顔で幸せに生き

周囲の人々を幸せにするということです。

「咲く」ということは

周囲の人々に、あなたの笑顔が

私は幸せなのだということを

示して生きるということなのです。

“神が私をここに置いてくださった

それは すばらしいことであり

ありがたいことだ”と

あなたのすべてが

証明することなのです

「咲く」ということは

他の人の求めに喜んで応じ

自分にとって ありがたくない人にも

決して嫌な顔 退屈げな態度を

見せないで生きることなのです。

2019年6月18日火曜日

記事紹介|利他を以て先とす

人間はいろいろです。

自分自身が変わっている人間なので、変わっている人がいることをよく理解しています。

馬が合わない人もいます。

でも、そんな苦手な人が社会にうまく適応できないで苦しんでいるときに、共感したり、悲しんだり、悲しんであげられる人間になれたらいいなと思っています。

そうすればみな、菩薩のように心が磨かれる。

この気持ちが社会にあふれれば、もっと、世界は平和で幸福になっていくはずです。

もちろん、なかなか思い通りにはいきません。

この世には「利他を以て先とす」の気持ちで生きるには、いささか障害が多いのも事実です。

そんな障害を取り除くための闘いをしなければ、平和も幸福も絵空事になってしまいそうです。

だから人生は闘いが大事なのです。

自分を含めて、利己的な人が多い社会の中で、利他的に生きるのはとても苦労が多いです。

相手を自分と同じくらい大切に思う…。

頭ではわかっていても、実際に行動に移すのはとても難しいことです。

人間は自分を大切にしようとする生き物だからです。

僕たちの頭の中に、爬虫類(はちゅうるい)と同じ脳が組み込まれています。

生きぬくためなら、どんなことでもする、自分の命を大事にするというのは、当たり前のことです。

この鉄則がなければ命は簡単に壊れていってしまいます。

100万回立ち上がる覚悟を、人は本能に近いカタチでもっているのだと思います。

生き抜こうとする爬虫類の本能がなければ、とっくのとうに、この地球から生命体がいなくなっていた可能性もあります。

利己的な人を見たとき、嫌なヤツと決めつけないで、これが人間だと思うところから、付き合いのスタートをすればいいのです。

利己的な人間という生き物が、利他的に生きるというのは、並々ならぬ努力が必要なのです。

だから生きるということは闘いなのです。

まだまだ十分にできていない自分に、いつもそういい聞かせています。

2019年6月17日月曜日

記事紹介|取捨選択

成果をあげる者は、

新しい活動を始める前に

必ず古い活動を捨てる。

ピーター・F・ドラッカー

*

古い活動と新しい活動のどちらにも共通するのが、いずれも時間を使っているということ。

1日は24時間と決まっている。

物と考えれば二つ同時に持つことが出来るかもしれませんが、時間の視点から考えれば、全く同じ瞬間に二つのことをすることは出来ない。

つまり取捨選択をする必要があるということ。

例えば、「今年は読書をしよう」と決めたのであれば、どこでその時間を捻出するのか、今まで何かに使っていた時間のどれを止めるのかを決める必要がある。

TVを見る時間、スマホを見ている時間、睡眠時間、非効率な移動時間などなど、自分が意識していない時間の使い方はないかを考える。

自分を見える化して優先順位を付けることが大事ですね。

2019年6月16日日曜日

記事紹介|大学ランキングの順位を上げること自体に何の意味があるのか

日本は逆に、トップ100位以内に10校という目標を立てたにもかかわらず、お金、つまり大学への運営費交付金を削ってきた。政府は大学や研究者を激しく競わせさえすれば自然と力がついて、国際的に評価され、ランキングの順位も上がると考えている。これはまったくの誤解です。

そもそもランキングはその成り立ちからして、お金と深く絡みあっています。この本質を日本政府は分かっていない。主要なランキングは英国企業が発表していますが、これは英国の国家政策を背景にスタートしたものです。ブレア政権(1997~2007年)は行財政改革の中で、教育研究にはお金がかかるから「このままでは大学が財政のお荷物になる」と考えた。そこで授業料を上げて、それを払える世界の裕福な学生をターゲットに、そして寄付もたくさん獲得しようと考えた。

日本政府がやったのは法人化です。しかし目的は「大学に入るお金を増やすこと」ではなく、「大学を財政負担から切り離すこと」そのもの。議論の経緯こそ似ていても、英国とはまったく違うのです。だから法案成立時に衆議院の附帯決議で、「法人化以前の状態を財政的な支援を守ること」と書いてあるにもかかわらず、すぐに運営費交付金の削減が始まりました。

お金を増やす仕組みを作ることなく、ランキング上の目標を立てるというのは、方法としてまったく間違っている。運営費交付金が減った影響で、研究者の数と研究時間は明らかに減っています。そんな中で順位を落としたとはいえ、京大と東京大学が世界トップ100にとどまっているのは奇跡に近い。

(「トップ100に10校」という目標を達成できない)原因は大学のマネジメントがうまくいっていないことだと考えているから。今年の財政制度審議会に出された資料を見れば、財務省は「国立大学はお金、お金というばかりで何もしない」という主張です。だからもっとマネジメントを強化して、競争に駆り立てて、効率的に運営すれば、ランキングもおのずと上がると思っている。

だが、実際にそうしてきた結果はどうですか? 現状を見てください。むしろ順位は下がっているじゃないですか。このやり方はね、どう考えても失敗なんですよ。

そもそも、ランキングの順位を上げること自体に何の意味があるのか。毎年の結果をみると結局、非英語圏の大学は10位以内に入れません。こういうランキングで上位を目指すということは、英語圏の二流大学を目指すということに等しい。それを達成して評価を受けたところで、その国にとって、一体どういう価値がありますか?

2019年6月15日土曜日

記事紹介|大学というところ

僕は、大学というのはひとつのジャングルの生態系みたいなものだと思っています。その理由は、いろんな種がいるから。ジャングルは、陸上で一番生物多様性の高いところです。昆虫も、鳥も、植物も、哺乳類もいっぱいいる。そういう連中が、お互いのことをよく知り合わずに共存している。大学っていう場所もそうなんですよね。工学部の研究者と文学部の研究者って、たぶん1回も会ったことのない人のほうが多い。でも同じ大学に生きている教員として、あるいは研究者として、共存していますよね。どこかで間接的には関係を持っているわけです。

しかも、閉鎖的ではなくて、半解放系というところも大学はジャングルと似ています。大学は、人事異動があったり、学生たちが入学したり卒業したりと、人が出入りする場所です。ジャングルもそうなんですよね。渡り鳥が来たり、あるいは上流から魚が流れてきたり、いろんな生物が、流れては出て行く。そういうジャングルの動的な生態系を維持しようと思ったときに必要なものは2つある。ひとつは太陽光、もうひとつは水です。

じゃあ大学にとって「水」と「光」にあたるものは何かといったら、「資金」と「世論」なんです。資金がなければ、アカンでしょ。そしてやっぱり社会が支えてくれなければアカン。構造的にいえば、ジャングルと一緒なんですよ。

それに、ジャングルというのは新しい種をいつも生み出している場所なんですよね。新しい種が出てこなければ、ジャングルは生物多様性を保てない。大学でも、新しい種を生み出すようなことをしていかなくちゃならないわけです。だから私は自分のことを「猛獣使い」と言っています。自分が猛獣なんじゃなくて、猛獣を生かすような活動をしていくということです。

ゴリラは霊長類のなかでは一番大きいかもしれないけど、哺乳類としてはそんなに大きいほうじゃない。ゾウやバッファローやオカピやカバ……他に大きい動物はいっぱいいる。そういう「俺が、俺が」と言っているような自己主張の強いやつがいっぱいがいてこそのジャングルです。大学でも、そうした人たちが切磋琢磨して、あるときは競い合い、あるときは手を取り合っていかないと、新しい種は生まれない。だから私のスローガンは「おもろいことをやりましょう」なんです。お互いにただ競合するんじゃなくて、「おもろいこと」が出てきたらそれを認め合いましょう、と言っています。

「変なこと」「常識とは違うこと」です。京都大学では昨年から「京大変人講座」という公開講座をやっていますが、そういう「おもろいやつ」がいっぱいいるところが大学であってほしい。それがいつかは社会のためになることにつながるかもしれない。つながらないこともたくさんあるかもしれないけれど、そういうものを可能性として持っていなければ、大学は廃れてしまうと思います。そういう「おもろいこと」をやりましょうというのが、私の大学観です。

資金と世論は大事だと思いますよ。それは「窓」が機能してこそ生きる。大学というのはこれまで、神社仏閣と同じように「門」であると考えられてきました。たとえば東大には「赤門」があるし、入試難易度の高い大学は「狭き門」と言いますよね。大学のキャンパスに一旦入ったらそこは世間とは違う場所であるという感覚が今まであったわけだけど、そうじゃなくて、大学というのは社会に開かれた「窓」でなければならないと僕は言っているんです。

学生は、どんどん社会に出ていけ、と。そこでいろんな経験を積んで、あとは大学に行き来しながら学問を積んでいったら良いんです。今の大学というのは、僕の学生時代とは随分違うと思うんですよ。僕の学生時代は、知識を得る手段は人と本だったんです。だから新しい知識を得るには、講義に出て先生から聞く必要があった。先輩や友達から聞かないといけなかった。あるいは図書館に行って、本を借りなくちゃいけなかった。

でも今の若者たちは、知識は人からも本からも得るものじゃないと思っている。インターネットにすべてがあるわけですから。いい加減な情報もいっぱいあるかもしれません。でも、手っ取り早く知識に接することができるし、知識から知識へどんどん飛ぶことができる。インターネットは無限の知識の宝庫だと、誰もが考えているわけです。

だから今、学生たちが大学にやってくる理由は、知識を得るためではないと僕は思っています。では一体何を得るために大学に来ているのでしょうか。それは、僕のフィールドワークと一緒なんですよ。つまり、そこでいろんなやつが考えていること、あるいは経験したことを、実感したいからなんです。

他人の考え方は、その人と一緒にいないと得られません。いくら本を読んでも、その著者の考え方はわからない。書いたものと喋ったものとは違うからです。書いたものというのは、読者本位です。本にはいろんな読み方があって、どう解釈しようが読者の勝手。でも喋ったことっていうのは、喋った人本位なんですよ。喋っている場合には、受け取られ方によっては喋ったほうが怒るわけですよね。「俺はそんなつもりで言ったんじゃない」と、言えるわけです。それが生の講義であり、生の実験なんです。それは、まさにフィールドワークです。大学はジャングルだと言っているのは、そういうわけです。

ジャングルの様子をビデオに撮ってしまうのと同じで、「文字」にしてしまうといくらでも勝手に解釈できてしまう。大学っていうのは、生きている場所。「文字」や「情報」に還元できないところを持っていなければ、大学として生きないと思うんです。だから対話が重要なんです。いろんな人が話をしながら、体験を共有しながら、五感で感じあっていく。そういう場所を直接的、あるいは間接的に用意するのが大学であるべきだと思っています。