『「勉強」とは、頭の中に知識や技術を増やすことだと思い込んでいる風潮がある。
しかし、頭に叩き込む知識は、しょせん、生きていくうえでの道具にしかすぎない。
どんなに高度な知識や技術を習得しても、それを使う本人に、“人間としての魅力”がなければ、せっかくの知識や技術は、“宝の持ち腐れ”となる。
「人間としては最低」の一言で、偏差値エリートは挫折するのだ。
東洋人物学では「出処進退(しゅっしょしんたい)」が人物を見る上で大事な要件となっている。
出処進退の中でもとりわけ大事なのが、「退」という退くときの身の処し方だ。
いかに鮮やかに身を引くか。
ダメな人間は、地位に恋々としがみついて離れない。
そして、そこに己の名誉欲や、地位への執着がにじみ出てしまう。
同じように、会社を辞めるときにも人格があらわれる。
会社の悪口や上司や同僚を非難したり、評判を落とすようなことを言ったり、申し出た日に辞めたり、引継ぎもしないで出社しなくなる、などをする人たちだ。
まさに、「人間としては最低」と言わざるを得ない。
その人の評判は回り回って、誰かが知ることとなる。
町で会ったり、どこか仕事の関係で会ったりすることだってある。
「来たときよりも美しく」という言葉がある。
「退」のときの美学をいかに持てるか、学んでいるか。
人格は、後ろ姿に表れるという言葉を胸に刻みたい。