ロン・クラーク氏の心に響く言葉より・・・
「もしこの学校にきみたちをいじめたり嫌がらせをしたりする子がいたら、わたしに知らせてほしい。
わたしはきみたちの担任だ。
わたしはきみたちを守り、世話をするためにここにいる。
この学校のだれかがきみたちをいじめたり不愉快な思いにさせたりすることを、わたしはけっして許さない。
そのかわりに、きみたちも何か問題が起きたときには、それを自分で解決しようとしないで、わたしにまかせてほしい」(ルール43)
たとえば、ハーレムの小学校で教えていたとき、わたしのクラスのジェレミーという名の男の子が、マークに悪口をいいふらされている、と訴えてきたことがある。
そこで、わたしは休み時間にジェレミーを連れてマークのクラスに行き、彼を廊下に呼び出した。
まずわたしがジェレミーから聞いたことをマークに話し、そのうえでマークの話を聞いた。
マークはまちがったことは何もしていないといったが、わたしの反応はいずれにせよ同じだった。
片方の眉を上げ、できるだけ厳しい表情でマークの目をのぞきこみ、歯を食いしばったままでこういったのだ・・・
「あのね、過去に何があったかなかったかはどうでもいいんだ。
大事なのは、同じようなことがこれから先、二度と起きないということなんだよ。
いいかい、わたしはきみの担任じゃない。
だけど、いまここではっきりいっておく。
きみ、ここに立っているこの子が見えるね?
この子はわたしのクラスの子どもだ。
今後、きみはこの子をからかってはいけないし、いじめてもいけない。
もしそれが守られなければ、きみはわたしと対決することになる。
わかったかな?」
つぎに、わたしはジェレミーのほうを向き、同じように、マークによけいなちょっかいを出してはいけない、と話して聞かせた。
万が一、ジェレミーがマークにちょっかいを出すようなことがあれば、そのときには彼もまたわたしと対決することになる、と。
当事者の双方に話して聞かせることによって、どちらかが不公平な扱いを受けたという気持になることがないばかりか、両方が同じだけの罰を受けたような状態にできる。
とにかく、わたしとしては、自分のクラスの子どもの肩をもっているだけと思われたくなかったし、ジェレミーが自分のことさえ解決できない子どもと思われるのもいやだった。
その後、マークとジェレミーのあいだには二度と問題は起きなかった。
大人からそういうかたちで支えてもらえるというのは子どもにはとても意味のあることで、それが大人への信頼感につながる。
ロン・クラーク氏は、1995年からアメリカの小学校教師となり、学習や行動に問題をかかえる生徒の多い学校、なかでもハーレムの底辺校から優秀児を輩出し、目覚しい成果をあげる。
2000年、28歳のときに「全米最優秀教師賞」を受賞。
毎年、受けもちの生徒に教えるルールをまとめた本、『あたりまえだけど、とても大切なこと』(草思社)は全米で大ベストセラーとなった。
子どもが守らなければならないルールには…
「大人の質問には礼儀正しく答えよう」
「相手の目を見て話そう」
「だれかがすばらしいことをしたら拍手をしよう」
「勝っても自慢しない、負けても怒ったりしない」
「何かをもらったら3秒以内にお礼をいおう」
「もらったプレゼントに文句をいわない」
「意外な親切でびっくりさせよう」
「人の成績をいいふらさない」
「授業中は許可なく席をたたない」
「先生に挨拶しよう」
「つぎの人のためにドアを押さえていよう」
「お世話になった人にはお礼をいおう」
・・・他。
これらのルールを破ったときには罰がある。
最初は、その破った子どもの名前を黒板に書く。
二度目には、違反切符を渡す。
そして、ルール破りするたびに、違反切符が増え、罰は重くなっていき、保護者も巻き込んでの対応となる。
もちろん、よくできたときは褒美を与えるのは言うまでもない。
いじめへの対処や、躾(しつけ)の問題は、日本だろうが、アメリカだろうが同じだ。
日本では、自主性や自由のことを重要視する人は多いが、逆に規律や強制ということはないがしろにされがちだ。
しかし、社会生活をおくる上では、規律やそれにともなう強制は必要だ。
そして、そのルールをしっかり守らせるには、大人の関与がどうしても必要となり、同時に、「子どもを守る」ことは大人しかできないことだ。
礼儀や躾を守り、思いやりのある、子どもに育てたい。