大日本育英会
昭和17年の7月、私は、内閣から大蔵省主計局に復帰して、文部省と南洋庁との主査を命ぜられた。当時我が国は、東条内閣の下、国を挙げて総力戦体制を整備しつつあった。文教行政の面にも、その余波をうけ、或はその時流に便乗して、科学技術の振興、師範学校の昇格、英才教育の助長、東洋文化の開発その他が、とり上げられていた。
東大に第二工学部が出来、各大学の理工学部の講座が無闇に増設され、或は、全国各地に、高等工業学校や、医学専門学校等所謂、理科系の学校が新設されたのもその頃である。又帝大の附属医専を始めとして、夜間高工が既存の学校に附設され、或は、高等商業学校を高等工業学校に改組する等という荒っぽい手段が講ぜられたのも、斯様な風潮を背景にしてであった。各帝大と有数の単科大学に大学院が附設され、各大学に無数の研究所が設立されたのも、正しく、その時期であった。
大日本育英会の設立も、又決してその例外ではなかった。野に遺賢なからしめ、凡ての英才を聖戦に参往させるためには、英才を抱きつつ、家貧しく学資乏しきが故に進学の道を塞いではいけないというので、育英事業が、国の手によって始めて組織的にとり上げられた。当時の大蔵大臣は賀屋興宣氏、主計局長は植木庚子郎氏(現代議士)で、この仕事は、植木氏と私が、大げさに言えば、心血を注いでやり途げた仕事である。
育英事業というのは、何もこれが始めての試みではなく、既に、全国各地の旧藩主や篤志家によって相当広範囲に営まれていた。私の郷里香川県においても、松平伯爵の庇護の下に香川県育英会があり、坂出市の素封家鎌田勝太郎氏の出捐のもとに鎌田共済会があって、私もこの両育英会のお世話で、大学までの進学を恵まれた一人である。数多くの人々が、こうして各々その出身地の育英会の手によって、高等教育を受け、立身の緒口を掴むことができた。
しかしこれまでの育英会は、おしなべて、私的な寄附行為による財団法人であって、国又は公共団体が財政的に関連をもっているものは少なかった。今度は、国が直接この仕事の経営の主体となり、財政上の主体にもなるということになるのだから、どういう理念によって、この制度を打建てるかが、当然、われわれにとって大きい問題になった。
大蔵省の役人というのは、職業柄、何をやるにしても、なるべく金をかけないように心懸ける本能をもっていた。そのことは、確かに一面、よいことには違いないが、他面、そのために中途半端のものが出来上って、悔を後年に残す場合もあったことは否めない。一般に金を使うことはむずかしい仕事である。殊に公金を扱うことは、難事中の難事である。私などは、勿論貧困に育った身であるから、どちらかと言えば、寸銭を惜しむ本能においては、人に劣るものではなかった。従って、私の予算査定は、大抵の場合、きびしかった。大日本育英会も、不幸にして、きびしい私がその産婆役にめぐり合せたわけだ。
最初私が考えたことは、国が育英事業に手を出すにしても、何も、既存の育英事業と競合する必要はない。既存の育英事業で以て、まだ救い出しきれない英才がありとせば、それをこそ国の手によって進学せしめることにすべきだ。それには、何を措いても、先ず、所謂、「英才」というものは、一体どういう程度の目安で選び出すかという問題に出くわすわけである。何でも漢字で、「英」というと千人に一人の逸材をいうのだそうだが、そうなると、とびっきりの秀才でなければならない筈である。「俊」といい、「英」という語は、今日考えられているように、ぞんざいなものではない。
ところが、一つの町村立の学校でも一年の児童数は、五十名乃至百名程度であって、千人に一人の英才を選び出すに足る大数には達しない。なるほど中学校にすれば二千なり三千の児童の中から選び出した英才が居るに違いないというけれども、小学校から中学に進み得ないままで、家庭の事情から既に脱落した英才が洩れてしまうことになる。どうしても英才選別の基礎は、義務教育である小学校におかないと困るわけである。ところが、一単位の小学校では、児童数が足りないので、本当の英才を選び出すことはできない怨みがある。試験によるとしても、その方法自体に欠階があることは否めない。
ところがもう一つの困難にぶつかる。それは小さい時は神童でも、大きくなると凡才になってしまう人もあれば、その逆の場合もあり得るわけである。従って、英才を選び出す基盤は、多少意に沿わないまでも、なるべく広くとっておかないといけないことになる。そこで、色々考えあぐんだ末、私は、小学校六年の全児童の一割という員数を、国営育英事業の一応の基礎員数とした。
斯くして得た基礎員数に、貧困率と死亡率とを乗じて得た年々歳々の要助成員数から、既存の育英制度で救うことができる員数を控除して、育英事業の対象員数を算出した。勿論、貧困率などという変数は、そう簡単に捉えることができる数字ではない。そして詳細なことは、一々記憶していないが、ともかく斯くして算出した年度別の対象員数は、予想よりは遥かに少い数字になり、予算も大した数字に上らなかったことだけは記憶している。私があやしい高等数学を駆使したのもその頃で、局長や課長がなかなかのみこめなかった滑稽な場面もあった。
次に、私の基本的な問題は、一体この育英制度のやり方を、給費にするか、貸費にするかということであった。そこで、貸費にした場合の複利計算と貸費に要する事務費を計算して、その現価を求めると、同じ金額でどの程度の員数に給費ができるかを計算した。勿論、種々の想定に基づいた計算ではあったが、同一金額で貸費できる員数の約二分の一は同じ金額で給費を行うことができるという結論であったことを記憶している。そこで、私は、基礎員数を、前述のように甘くとったのであるから、これを制限するという意味も手伝って、給費制度を主張したものである。
ところが、私の提案に対して、文部省はもとより大蔵省の主脳部までが、これは「きつすぎる」といって、何とかもっと甘くしてくれという注文が起った。私はその理由が、極めて根拠に乏しい俗論であるというので大いに反論を加えたものである。ところがその俗論の中で、一つ私の肺腑を衝いた言葉があったのである。それはこの育英予算を審議していた或る日のこと、植木主計局長は、こう言い出した。「自分は、貧しい家に生れて、到底上級学校に進学できる身分ではなかった。そこで、己むなく姓を変えて養子に行き、義家から一高、東大へと進学させて貰ったのだ。男が自分の姓を変えるということは辛いことだ。しかし、向学心をもっていても貧しいために、心ならずも、こうした道を選ばなければならない人が多かろう。自分は、日本の後進青年のために、こうした辛酸をなめさすに忍びない。そこで自分は、非常な情熱を傾けて、この制度の発足に努力しているのだ。大平君どうか自分の心情を汲みとって、できるだけ多くの人に、この恩恵が均霑(きんてん)されるように考えてもらいたい。」
植木主計局長は、涙を浮べて、私にこうして協力を求められた。彼は私の上司であり、予算編成の実権を握っている主計局長であり、見方によっては、国務大臣以上の権力者であったとも言えるが、この人が、自分の身の上によせて赤心を吐露されたわけである。それまで数字と論理一点張りで頑張っていた私の頑強な気持も、この言葉を聞いて雪が陽光に解けて行くように、解けて行った。私は植木主計局長の意を体して、当初の私の提案を大幅に是正し、給費を貸費に改めて、国会に提出した。そして今日の大日本育英会は、昭和18年度から発足したのであった。
植木主計局長は、昭和27年、私と時を同じうして、福井県から衆議院議員に選出された。その選挙戦に於ける演説でも、「自分は、大蔵省在勤時代に色々な仕事をしたが、とりわけ大日本育英会を、今、香川県で同じ選挙を戦っている同僚大平正芳君と協力して、作り上げたことが、終生忘れることのできない立派な記念碑である。」と述懐された。「君は福井県でも当選するよ。」等とよく冗談に言われる。しかし、私をして言わしむれば、大日本育英会の礎石は、植木さんの飾り気のない至純な後進を思う同情心が、これを永久に据えたのであって、私などが、これにあやかっておほめをいただくのは勿体ないことだと思っている。それにしても、今日まのあたり見る大日本育英会の育英事業が、こうした先輩の至純な支持と愛顧を寸刻も忘れないで、員数と金額の多くを誇る前に、感恩と責任感に立脚して実り豊かなものに成長し充実して参るよう祈らずにはおられない。