2018年3月26日月曜日

記事紹介|歴史に学ばない者は、歴史の繰り返しに抗し切ることもできない

名古屋市立中学校が前川喜平・前文部科学事務次官を講師に招いた2月の総合的な学習の時間について、文部科学省初等中等教育局教育課程課が市教委に授業内容の報告を要請していたことが分かった。きっかけは国会議員からの問い合わせだったというが、それにしては文面に前川氏への悪意が感じられる。

天下り問題で辞職し、出会い系バーを利用した同氏を、道徳教育が行われる学校の場に、どのような判断で依頼したのか――。まるで前川氏の人格が反道徳的であるかのような書きぶりである。天下りはともかく、出会い系バーの方は違法性がないにもかかわらず一部新聞が1面肩で報じた在り方が政権側の意図をくんだと批判され、その後の週刊誌報道で性的欲求を満たす意思がなかったことが明らかにされたにもかかわらず、である。

旧文部省系の現役官僚には前川氏を慕うだけでなく、批判的な者も相当数いるようだ。今回の報告要請の背景に、前川氏に対する怨嗟(えんさ)がなかったとは言えまい。しかも「考え、議論する道徳」を進める立場の初中局が、前川氏の道徳性を断じている。それも、その官僚たちが考える官僚としての道徳的価値で判断しているにすぎない。

そんな省内の人間関係を問題視するのは、決して業界紙誌的な野次馬根性ではない。世代間のギャップが、今後の文教行政に深刻な劣化をもたらしかねないと懸念するからだ。

少なくとも前川氏までの世代なら、個別学校の授業実践を文科省が直接問い合わせるなどということには極めて抑制的であるべきだという暗黙の合意があった。それは戦前・戦中の教育に対する反省であるとともに、戦後の「偏向教育」問題や教科書裁判など激烈な教育権論争を通して、旧文部省なりに得た教訓である。調査するにしても、ソフトなやり方はいくらでもあったはずだ。

しかし最近ではいじめ問題や教科書採択問題など、担当課はもとより政務三役さえ現場に出張って調査する事例も珍しくなくなった。それが「異例」であるという感覚がまひし、法令上は何ら問題はないと平気で容認してしまう。

例えば学習指導要領に関して、2003年の一部改訂をめぐり若手官僚には「なぜ改めて指導要領の基準性が問題になるのか。もともと指導要領は大綱的基準であって、現場の裁量が大幅に認められているではないか」という声があったという。指導要領通り、教科書通りに教えないことがしばしば政治問題化した戦後教育の歴史をまったく知らない世代らしい。日教組分裂後に採用された年次が既に課長級になっているから、それも致し方ないのかもしれない。

しかし歴史に学ばない者は、歴史の繰り返しに抗し切ることもできないだろう。それで高校の新科目「歴史総合」を推進しようとしているのだから、先行きが不安である。

今回の問題でもマスコミに発言している文科省OBの寺脇研氏は、前川氏との対談本『これからの日本、これからの教育』(ちくま新書)の中で、「命がけの文部官僚」剱木亨弘(けんのきとしひろ)元文部相を話題にしていた。そこまで苛烈ではなくとも、歴史的葛藤の下に営々と積み上げられてきたのが文教行政の英知だったはずだ。それを顧みずに「明治150年来」などと言って済ましている場合ではない。