高等教育に対する世間の目は厳しい。それは初等中等教育と比較すると明らかである。かつては、社会の教育に対する関心といえば、初等中等教育に対する批判が中心であった。学力向上やいじめ、不登校などの問題行動への対応、通学路の安全対策などについて批判的に問われることが多かった。しかしながら、最近では、教職員の忙し過ぎる勤務実態に関する報道が多くなり、国会でも与野党を問わず、教職員の勤務環境を改善すべきだという話になっている。初等中等教育については社会からある種のシンパシーとも言える感情が膨らんできているのである。一方で、高等教育については、以前と変わらず、学生が遊んでばかりいる大学に予算を増やす必要はないといった声が多い。そうした声については、昔の大学のイメージで語っているものであって現在の大学が随分変わってきていることを知らないからではないか、という反論があるだろう。しかしながら、そうした反論は伝わっていないのか、伝わっても響かないのか、結果として大学への目線は厳しいままである。
近年、国会や政府において高等教育はかつてないほど注目されている。多くの政党は何らかの形での教育の無償化を公約としている。高等教育まで対象とするかには温度差があるものの、高等教育の無償化の是非が与党も含めた議論の対象になっているということだけでも数年前には考えられなかったことである。これだけ注目が集まり、高等教育への投資が拡充される絶好の機会であるにもかかわらず、そこに必ずついてくるのは、やはり「教育の質が低い大学に投資をする価値があるのか。」「投資する前に、多過ぎる大学の数を減らすべきではないか。」という議論である。文部科学省も、大学も、国立大学の運営費交付金の削減による影響や私学助成が10%を切ったという状況を訴え続けてはいるが、社会の大学への目線に「シンパシー」は生まれていない。
なぜ社会全体で大学を応援しようという空気が生まれないのだろうか。理由の一つは現在の大学の姿が社会に伝わっていないことであろう。もちろん大学関係者は情報を発信する様々な取組を行っている。その際大切なのは、誰に、どのような情報を発信するのか、という戦略性である。受験生や保護者に対しで情報を発信していくことはもちろん最重要であるが、それだけではない。大学への投資の在り方の政策を決定するのは誰なのか、政策決定の当事者に対して「大学っていうところは……」と語る有力者は誰なのだろうか、と考えれば自ずと戦略は見えてくる。全国各地の大学が、それぞれの地域で戦略的な「トップ外交」を行うことが大学への信頼醸成につながるのではないか。その地道な積み重ねによって大学への信頼が築き上げられる中で、短期的成果の証明に追い立てられるばかりでない、落ち着いた教育研究環境が必要だという議論が力を持つのではないか。
大学のイメージは変えられるか|IDE 2018年1月号 から