修道院に入った身に着飾ることも、化粧することも縁遠くなったが、美しい言葉を使うことはできる。
それは、あそばせ、ございますを頻発することではなくて、できるだけ美しいひびきを持った言葉を使うと同時に、適切な言葉を正確に使うことも意味している。
借りものでない自分の言葉、そして、相手を傷つけないやさしい配慮を含んだ言葉でもある。
ヴァイオリンの早期才能教育で知られている鈴木鎮一氏が、
「まず自分の言葉が相手を傷つけるかどうかを感じる能力を育てること、それが育てば、バッハやモーツアルトの美しい音楽を感じとることができる」
という意味のことを言われたように記憶しているが、他の子どもに負けないようにと、高い月謝を払い、高価な楽器を買って我が子を音楽塾に通わせている親たちの味わうべき言葉であろう。
今日のようにお金さえ出せば誰も彼も同じような服を着ることができ、立派な家に住み、車をのりまわし、外国旅行に行ける大衆社会の時代において、教養をあらわすものの一つは言葉となろう。
流行語でしか話せない人でなく、豊かな語彙(ごい)をもち、やたらに外国語を使うことなく美しい日本語を話し、自分の立場を正確に判断して正しく敬語を使うことのできる人になりたいものである。
自分の感情をすなおにあらわし、意見を他人にも理解できるように伝えるとなると、これはもう言葉の意識ではなく、話す人の品性にかかわってくる。
感情を適度にコントロールできる自制力、客観的にものごとを見る判断力、そして個性のある生活が必要となってくるだろう。
人は話す前は自分の言葉の主人だが、口から出してしまった言葉の奴隷でしかない。
そのためにもよく考えて話すことがたいせつだ。
矛盾のようだが、よく話すために、そして美しい言葉を使うためには沈黙が必要となってくる。
それは押しだまった沈黙、「自分」でいっぱいの沈黙でなく、または「物言えば唇寒し」といった自己防衛の沈黙でなく、実り豊かなもの、その間の充実のあふれが人をして話さざるを得なくさせるような準備の時間であり、自分のこれから話そうとすることの響きをあらかじめ聞くべく心の耳を澄ます時間である。
女の人の沈黙は特に美しいと思う。
ほほえみとともに美しい沈黙を育てること。
言葉に先立つものとしての沈黙をたいせつにしてゆきたい。
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「ことばは刃物」という言葉がある。
刃物は、気を付けて扱えば料理などではなくてはならない大事な存在だが、誤った使い方をすると人を傷つける凶器ともなる。
言葉もまた同じだ。
「神のささやきが聞こえるように沈黙しよう」(エマーソン)
《話し三分に聞き七分》、と言われるように、コミュニケーションは話すことより、むしろ聞くことの方が大事。
耳を澄ませば、神々のささやきまで聞こえるという。
自分が話してばかりいるときは、相手のことを分かろうとしていないとき。
沈黙には忍耐がいる。
しゃべりたくてウズウズしている自分を自己コントロールしなくてはならないからだ。
美しい言葉と沈黙には大人の品格がある。
美しい言葉と沈黙|人の心に灯をともす から