2008年4月25日金曜日

教職協働に向けた大学職員のとるべき道

前回に続き「教職協働」に関する話題です。前回は、教職協働に向けた課題の一つとして、教員と職員の関係改善、教員の職員に対する意識改革についてやや辛口のコメントを交え書かせていただきました。

大学に内存する問題から目をそらしていては、いつまでたってもあるべき姿は現実のものとはならず、明日への一歩を踏み出すことはできません。

私が尊敬し愛読させていただいているブログの一つに「大学プロデューサーズ・ノート」があります。少々古い時期のものですが、教員と職員の関係について触れている「就職先は「母校の職員」変わる東京大学」(2006年10月13日)の一部をご紹介します。(全文は、この日記の最後にある「大学教育」をクリックしてください。ブログを移転されましたが、現在でもランキングの上位に位置しています。)

「会議となると、教員が前に座り、職員は後ろの席でメモを取り始める。それが当たり前になっていた」という東京大学・上杉理事のご指摘が紹介されておりますが、これはおそらく、日本のほとんどすべての大学に当てはまるものだと思います。

ちょっと東大から話がそれますが、我が国の大学では、未だに教員=アタマ、職員=手足という役割分担を行っている大学が少なくないのです。

以前の記事で、広報の素人である教員が持ち回りの「広報委員会」で意見を集めて広報方針を立て、(プロであるはずの)職員はただ決定事項を拝領し粛々と実行のための事務処理に努めるという、大学に見られがちなガバナンス構造について書きました。こういった組織風土は、変えようと思ってもなかなか変わるものではありません。

このような二元体制になってしまう理由は色々あると思いますが、ここでは簡単に3つだけご説明します。
  • 教員、職員それぞれが「こうあるべきだ」という意識を変えられていない
  • 両者の属する組織のガバナンスが違っている
  • 教員と職員のスキル・能力に大きな格差がある
職員のことを、あたかも召使いか何かであるかのように思っている教員というのは、おそらく全国どこの大学にもいます。心の底で「職員が考えた案なんか信用できるか」という意識を持っておられる方も、残念ながら、少なくないと思います。

またそれをいいことに、自ら意見を出さず、責任もとらないポジションに甘んじている職員が、やはりどこの大学にもいると思います。「それは先生方がお考えになることだから」という言葉を、口癖のように使う職員です。

こうした役割分担を感じさせるのが、「事務方(ジムカタ)」という言葉です。「これ、あとはジムカタでやっといて」、「それはジムカタが用意します」など、この言葉には、何か顔の見えないサーバント集団というニュアンスが漂っています。

教員は個別の名前で呼ばれるのに、職員は一律に「ジムカタ」と呼んで無礼にならないのは、はじめから職員には、誰でもできる雑用仕事、手間仕事しかやってこないということの表れだとマイスターは思っています(マイスターが嫌いな言葉ナンバーワンです)。

こういった相互認識が根強く残っていると、教員と職員はいつまで経っても本当の意味で協働できません。

ガバナンスの違いも、両者の距離を拡げている要素の一つです。大学職員は、行政や会社に似た、ピラミッド型の連絡組織を形成しています。トップの方針に従って、上意下達で動く組織です。

かたや大学教員は、一応学部学科組織に所属してはいるものの、組織人と言うより、個人営業主に近い意識を持っている方も少なくないようです。大学に雇われているという意識よりも、自分は参加する学会や学術コミュニティの一員だという意識の方が大きいように思われます。加えて教員組織では、教授会に代表されるように、多くのことが合議制で決定されます。企業でいう「上司」にあたる役割の方がいないことも多く、トップダウン型の指令伝達には向いていません。

このように、同じ大学という組織に所属してはいても、教員と職員のガバナンスは全然違います。職員は「教員は勝手なことばっかり言う」とこぼし、教員は「ウチの職員は官僚的でアタマが固い」とこぼす原因はこれです。

教員と職員のスキル・能力に存在する非対称性も問題です。多くの教員は、東大などの研究大学で博士号を取り、自分の専門性を身につけています。そしてその専門性を磨き上げるべく、普段から様々な努力をしています。

一方職員はというと、学部卒でこれといったスペシャリティもなく、ただ漫然と仕事をこなしているだけの方も多いです。これでは、話を聞いてもらえなくなるのも無理からぬことです。職員も専門性を身につけるべきだとよく言われますが、それはこういうことです。

他にも色々と考えられますが、主に以上のようなところが、<教員=アタマ、職員=手足>となってしまう原因ではないかとマイスターは思います。

大学における教員と職員の位置付けの問題とともに、「職員の意識や教員とのスキル・能力の格差の問題」が指摘されています。

確かに、教職協働を実質的に成功させるためには、教員の意識変革にだけ期待するのではなく、教員に対抗できる職員自身の専門的スキルの向上、職能開発に向けた努力が不可欠なのだろうと思います。

教職協働に向けた大学職員の向かうべき方向性について、示唆に富む一つの論文を見つけました。
執筆時期はよくわかりませんが、中央大学の横田利久氏が書かれたもので、「あらたな教職協働に向けた職員の実践的課題を考える」というテーマです。

はじめに-教職協働に向けた「大学職員の専門性」とは

あらたな教職協働の必要性が指摘されている。そしてその在り方としては多くの場合、教学分野では教員と職員とがより高い次元で協働しあうべきこと、経営分野では教員の兼務に代わって職員がより重要な役割を担うべきことが述べられているが、いずれにおいても必須課題として職員の専門性を高めることが求められている。

実際、その養成に関する大学院や学会も近年できはじめてもいる。大学をめぐる環境の激変と経営困難化のもとで、教員と職員とのあらたな分業・協働関係の構築が求められるのは当然であり、教職協働を伴わない大学改革は改革とはいえない。「大学職員の専門性」は「現状では、大幅な権限を委譲するだけの品質保証、信頼性を担保しえているわけではない」ことも確かであり、それを高めることが急務ではあるが、よく考えると疑問もわいてくる。

そもそも「大学職員の専門性」とは何なのか*1。アカデミックな専門性なのか実務的・実践的な意味の専門性でよいのか、それは従来のゼネラリスト/スペシャリスト論や近年の職員アドミニストレーター論などとどう関係するのか、専門職と専門性とはどう関連させるのか、要するに職員はもっとプロになれということなのか、等々である。

私自身は今のところ、特殊な専門職をのぞけば、教員のような専門そのものではなく、「高度なマネジメント(それは十分専門性を持っている)を下支えする程度の専門性」でいいではないかと安直に思っているが、どうもことはそう単純にはいかないようで、育成方法や処遇・採用の問題まで直ちに議論が及んでなかなかすっきりいかない。

誠に残念ながら昨年急逝された孫福弘氏(当時横浜市立大学最高経営責任者)はこれらに関して「ゼネラリスト型というよりは、何らかの専門性(スペシャリティー)をもってそれをベースに仕事をするという、スペシャリスト型を加味した新しいスタッフである。しかし、これまでのスペシャリストのように、狭い専門性の中に閉じこもるのではなく、組織全体の展望を視野に入れたなかでの専門性の生かし方を常に考える、いわばゼネラリストとスペシャリストのハイブリッド型プロフェッショナルである」と分かり易く述べておられる。

大学行政管理学会大学職員研究グループでも昨年秋来、この「大学職員の専門性」が集中討議されている。この問題はあげればきりがなく、それだけで紙幅が尽きてしまうことから、今後さまざまな場で議論が深まることを期待して横に置くこととし、ここでは、教学分野で教職協働を推進していくための職員サイドの課題として、別に2つを取り上げてみたい。

決定的に重要なミドルの役割

教職協働推進にもっとも基本的で重要な環境条件は、組織ミッションが明確にされていることであり、そのためにトップや現場ミドル(ここでは職員管理・監督職レベル)のリーダーシップが発揮されていることである。

例えば、「学生の満足度向上」(早稲田大学)、「学生の学びと成長」(立命館大学)、「教育付加価値日本一」(金沢工業大学)といったミッションが全学的に共有されていれば、全ての大学構成員を励ましその下での教職協働は比較的容易となる。

とはいえ、うちはトップがだめで全学的なミッションが共有されていないから教職協働は無理だなどとミドルが言い訳をしてはならない。「大学運営の大半は職員の意欲と工夫、努力、それに政策でいくらでも変えられる」。大学は分権的であるため、実践の場である各機関にいけばいくほどミドルが、そのトップ(教学機関長)や審議組織・メンバーに働きかけ、部下をして教職協働に挑戦させることが可能である。教職協働のしかけづくりでもその組織風土づくりにおいても、ミドルの役割が決定的に重要なのである。

実際、大学改革先進校(つまり教職協働先進校)である立命館は、トップダウンでもボトムアップでもなく、ミドルアップダウン方式が改革を支えている。良い教職協働は、直接的な仕事の成果とともに、副次的効果を生む。教員と職員との信頼関係を築き上げ、パートナーである教員への理解を深め、自らの業務遂行能力を高め、さらに専門性開発への動機付けを得るなど、職員を大きく成長させる。それがまたあらたな教職協働の原動力となる。立命館を始め改革の進んでいる大学は明らかにこのサイクルがまわっている。

しかしながら、未だ多くの大学におけるミドルは、官僚的縦割り組織における「管理」機能は果たしていたとしても、こうした新たな挑戦的課題へのリーダーシップ発揮は十分とはいえない。むしろ失敗や問題発生をおそれ消極的なミドルや、自分は内心そうしたいと思っていてもそのためのリーダーシップ発揮をためらうミドルが多いと感じている。

リーダーシップには様々な定義があるが、一つは「一定の目標を達成するために、個人あるいは集団をあるべき方向に向かわせるための影響力の行使」である。そう考えると、ためらうミドルは主観的な意図とは別に後ろ向きのリーダーシップを発揮していることになる。大学職員はまじめで素直な人が多いから、自然とミドルの色に染まってくるからである。

こうしたこともあってか、大学のミドルは、民間の中堅社員と比べると「『課題形成、課題解決、課題共有』に力の差がある」と指摘されている。このことは、「大学職員現状意識調査」アンケート結果(2003年8月大学行政管理学会会員に実施。回答者数343通。回答率45.4%。大学行政管理学会誌第7号)からも垣間見られる。回答者の8割以上が課長職以上にもかかわらず、「後輩の指導がうまいと思いますか?」という設問に「いいえ」と答えた職員は60.9%に上っている。

一方、同じ調査で「自分には向上心があると思いますか?」という問いには、「はい」と答えた職員は95.0%に上っているから、あながち謙遜の結果とはいえない。要するに、後輩や他者への指導は下手だが、自分はちゃんと自己啓発しているということであり、教員集団と同様の発想で水平・分散的に「管理」している傾向が、アドミニストレーターをめざす学会の会員ですらみられる。

しかし例えば、大谷大学教育研究支援課では「教員の本務である教育研究にかける時間シェアを最大化する」ことを滝川義弘課長が組織ミッションに掲げて万事取り組んでいる。こうした課とそうでない大学・課とでは、課員の意識や業務対応はまるで違ったものとなろう。

ミドルのリーダーシップの発揮は教職協働推進に向けた大きな課題である。

教員・研究者への理解と職員の自己確立

教職協働に向けて職員に求められる基本姿勢としてもっとも大切なことは、パートナーである教員・研究者の特性と彼らの立場をよく理解し自らを律することである。

大学教員は基本的にその専門分野の研究業績によって採用され評価されている。実際、主に教育と研究のどちらに関心があるかという国際調査においても、日本の大学教員は国際的に見て突出して研究重視である。そして、教員は改革に参画しても個人の授業負担・研究義務は軽減されない。それによって改革が進んでも、給与も身分も別にかわらない。学者の世界で評価を得るにはとにかく研究業績をあげるしかない。

教員にとっては、改革の「時間コスト」も参画へのリスクもすべて自分持ちだ。にもかかわらずこの間の大学改革で教員は、忙しくなる一方である。大学間の労働移動性も高い。こうした中で、いわば「持ち回りの雑用」意識を超え、高い代償を支払って改革課題に参画をしてもらうことは容易ではない。

しかし、職員はそうではない。職員は組織で仕事をしているため人的手当をはじめ負担増はある程度組織が対応してくれる。その仕事ぶりによって、たぶん生涯を過ごすであろう当該大学において、給与も身分も声望もあがる可能性が大きい。

要するに職員にとっては、プロの職業人でありたいとする限り、改革への参画は大きなチャンスでありいいことずくめなのだ。しかも職員は割にたやすく、組織バリアーの中に逃避し組織を言い訳に使うことが可能である。(逃避の容易さは教員も同じだが、ここでは言及しない。)

いかに職能が異なるとはいえ、教員と職員とではこうした見事なまでのアンバランスが厳然として存在しているもとで教職協働を推進するためには、先ず「教員の教育や行動を変えるのは何かを見極める必要」(濱名篤関西国際大学教授)がある。

そして、「職員の専門性」の課題はひとまず置くとしても、せめて我々は自らも多様な形態で学びを継続し、それによる教育・研究への理解を深めつつ、「組織における個の確立」を図っていきたい。そうしなければ、パートナーシップの担い手としてはとうてい十分ではない。

おわりに-志の高い元気な提案・説得型の職員に

あらたな教職協働は、最終的には、「『教師が教育と研究に専念できる』システム」を目指さねばならない。

まずは、職員一人一人が、「学生のため」をより深く広い視野で捉えた上で業務の中核に据え、改革への志と気概を自らの実践の中でしめしていくこと。職員の責任において本来可能なことは教員に投げずに実践し、教員の責任において対応すべきことは堂々と主張すること。そして、これらの結果を率直に相互点検・評価できる風土をつくっていきたい。

あらたな教職協働は、教員と職員との間にそうした一定の緊張関係が必要であるが、「学生のため」が相互理解・了解を進めるキーポイントになる。だから、打たれ強く粘り強い提案・説得型の職員になってほしい。いきなりは難しそうだと思ったら、まずはとにかく言い訳や責任転嫁をせず元気にひたむきに仕事に取り組むことだ。そうした職員の立ち居振る舞いが教員を励ますことにもなる。

大学経営分野の教職協働という点では、日本福祉大学の執行役員制(教員5人、職員5人)が現在もっとも先進的な到達点であるが、これとて一朝一夕にここまできたわけではない。知多半島移転後の諸課題に対する20数年にわたる、教員との激論を含む教職協働の取り組みの成果である。

道は厳しいがまずは職員からである。「職員が変わらなければ大学は変わらない」(日本福祉大学常任理事福島一政氏)のである。


*1:肥塚浩立命館大学教授は、「職員の専門性」を高度なあるいは特殊な専門的知識や技術とともに、マネジメント能力を高めることによるマネジメントの専門性の2つをあげている。 また、「大学職員の専門性」に関わって、職員の必要な能力として次の5点をあげている。  1)高等教育の現状について、その歴史的経緯を踏まえ、かつ将来性を見据えた調査分析を行う能力、 2)課題を発見し、政策立案できる能力、 3)課題を解決する実践能力、 4)実践した仕事の達成水準の評価とそれを次の課題にフィードバックする能力、 5)大学の構成員およびステークホルダーとコミュニケーションする能力