2008年4月14日月曜日

大学への財政投資の必要性

前回の日記では、中央教育審議会が示した「教育振興基本計画の答申案」について「骨抜きになった教育の未来」と題して少々辛口のコメントを書いてしまいました。

これまで政府系の会議などで、事あるごとに多くの有識者が「高等教育への公財政支出増の必要性」を訴えてきているにもかかわらず、一向にその気配すら伺えません。

「道路」も大事でしょうが、政治家も役所もこの国の行く末を大事に思う気持ちが本当にあるのであれば、もう少し「教育」について本気と思えるような行動をとって、先進国並みの公的負担を確保し、家計負担を少しでも低くすることにより、国民の生活に安心と希望を与えてくれてもいいような気がするのですが。

こだわるわけではありませんが、安西祐一郎慶應義塾長はじめ3人の有識者の方々が連名で出された提言の教育振興基本計画への反映は、我が国の教育の未来に希望をつなぐ意味で、多くの関係者が望んでいたことではないかと思います。財務省の経済原理によって軽々しく取り扱われるようなものではなかったのではないかと思います。

今日は、安西氏をはじめとする有識者の方々の提言について、山本眞一氏(広島大学高等教育研究開発センター長)が文部科学教育通信(No192 2008.3.24)に寄せられた「2025年の高等教育システム」の抜粋をご紹介します。


大学への公財政支出大幅増の提言

去る2月8日、中央教育審議会委員である安西祐一郎、郷通子、金子元久、木村孟の4氏の連名で「教育振興基本計画の在り方について」と題する文書が公表された。高等教育への大幅投資増を主張した「檄文」として紹介した新聞記事もあったようだが、文書の趣旨はその冒頭の「グローバルな知識基盤社会の時代を迎え、日本の大学教育の質の維持・向上をいかに図っていくかは緊要な課題である。人口減少社会の我が国が危機を乗り越え、活力を維持していく成否は、大学の在り方にかかっている」として、「教育振興基本計画」では、その理念を具現化することが必要である、という主張に表れている。

このような提言が改正教育基本法に基づく教育振興基本計画に盛り込まれるとすれば、これは高等教育関係者にとっては朗報に違いない。なぜならわが国の高等教育に対する公財政支出は、諸外国に比べて極めて貧弱であり、現状打破を図るには相当思い切った政策転換を行わなければ実現困難であるからである。文書では、「我々は、現下の厳しい財政事情について決して無理解ではない」と断りつつ、先進諸国が高等教育への投資を競い合うように伸ばし、量の拡大と質の向上を共に追求している現実を無視することは「鎖国的発想」だとして、政策の転換を強く促している。

大学は構造転換に耐えられるか?

もっとも、この文書は公財政支出の大幅増に向けた政策提言として高く評価されるだろうが、高等教育を専門とする者から見ると、いくつかの点についてさらに検討を要するように思われる。その一つは、2025年の我が国の大学在学者数に関しての点である。文書では、大学・短大学生255万人は、過去10年間のトレンド及び18歳人口の将来推移に基づく推計、大学院生数は、過去のトレンドを参照し、10年間で1割増加すると仮定して試算、社会人学生数は、履修証明プログラムの普及等を勘案し、米国の在籍者比(2割)程度と想定、留学生数は、過去8年間のトレンドに基づいて推計、とある。

これらの推計の根拠の是非はともかくとして、仮にこのような数字が現実のものとなった場合、我が国の大学システムには根本的な変革が必要だが、大多数の学生を日本人の若者の依存してきたこれまでの大学システムは、はたしてその変革に耐えられるだろうか。学生数の見積もりの中でも、社会人学生80万人というのは、衝撃的な数値である。これまでのように若く社会経験も未熟な学生を念頭に置いた教育指導には、根本的な見直しが迫られるであろう。

成熟した社会人学生は、教師のいい加減な教育を決して見過ごさないであろうし、それがさらに進めば、研究者養成を意識の底に置いたアカデミックな教育ですら批判の対象になるのではあるまいか。今のように社会人学生が少数にとどまっている間は、社会人学生の中にも「学問の香り」が好きで大学に来ている者が多いであろうが、知識社会における生きる術を学ぼうとして多数の社会人学生が押し寄せるようになれば、そのような甘い考えでない学生がマジョリティーになるのは目に見えている。

「人材」への投資の必要性

このことは将来の大学教師の養成や研究者としての訓練にも影響を与えることであろう。先日、ある雑誌記事で、文系オーバードクターを解消するには、純粋基礎学問だけではなく応用分野も訓練することが大事だとの主張を読んだことがある。院生の就職先の拡張方策として理解しているが、このことは大学に残って教育研究を続ける場合にも大いに当てはまる。

また、消費者意識の強い社会人学生や同じく主張力のある留学生が増えれば、大学経営にも大きな影響が出てくるであろう。教員の自治は大事だが、大学経営にもますます企業的マインドが必要になってくる。経営革新に備えた人材養成と確保はますます喫緊の課題になるであろう。もちろん大学というものは、この文書のような将来図式ともなれば、これまでのようなアカデミックな世界に閉じたものであることは許されないだろうから、当然と言えば当然である。

次に検討を要するのは、公財政支出5兆円の主張の根拠である。我が国の縦割り行政の中で、高等教育に資源をより多く振り向けることは容易なことではあるまい。この点、文書では、2025年の学生一人当たり高等教育費を現在のアメリカ並みと仮定し、その費用の負担を、現在の公費4割・私費6割から公費5割・私費5割に改めるとして計算をしている。諸外国との現状比較は重要だが、それだけで財政当局を納得させ、政治家の支持を取り付けるのは簡単ではない。おそらくその財政支出の内訳が求められてくるのではあるまいか。

この点でいつも疑問に思うのは、国による人件費および人員抑制政策である。もちろん無駄な人件費を削ることが重要であることは言うまでもない。しかし、我が国の大学は、欧米の大学に比べて教員の数はともかくその質について、また彼らをサポートする人員について質・量とも不十分であることはつとに知られた事実である。この問題を解決しないで諸外国と競争できるような大学システムを構築することはほとんど不可能ではあるまいか。

思うに、大学というものは「人材」の缶詰のようなものである。「人材」は教育を受ける学生だけのことではない。教職員も「人材」であり、その質が大学の良否を決める。そうであれば、人件費に十分な投資をしている大学が悪いはずがない。あえて極論すれば、「人件費比率の高い大学は良い大学である。ただし質が高くかつ有益な教育・研究が行われているならば」とでも言えるほどの世論の理解が得られることが、これからの国際競争力の高い大学づくりに必要なのではないかと思うのだが、いかがなものであろうか。