文科省の広域人事の問題、幹部職員の問題、人事権の行使は学長の責務
- 事務の合理化は、結局誰かが泥をかぶって様々な抵抗勢力と戦いながらでないとできない。例えば職員について形骸化している評価制度を実質化しようと提案すると、すぐに職員組合から反発が起きる。だから、事務局長が強い意志でもって何としてもやらなくてはいけない。学長が前へ出てしまうと、ややこしいことになってしまう。法人化の前から国立大学の学長がよく言うのは、「学長と事務局長とが本当に意気投合できるときにこそ改革をやる。それでうまくいかないときはやらない」と。局長が代わったときにまたやるということは事務局長の役割が決定的に重要ということ。
- 理事は充分やる気があって、テーマによっては一生懸命にやっている。けれども体制、意識とかスピードということになってくると、やっぱり事務局のガードが強い。事務局長というのが常に組織を掌握している。各理事が自分の下に事務組織を持っているのだけれども、それは横できちんと事務局長が掌握している。言ってみれば一種の二重構造。
- 広域人事で全国の大学を2~3年で回っている人達は、最初は国立大学や高専に採用された人達で、20代に見込まれて文科省に転任した人達。係員、係長として、政策立案、政策の実務設計、調査・分析、政策の執行、予算配分などの実務面をこなした経験を豊富に持っており、全国的、ポジションによってはグローバルな視野で仕事をしている。概ね38歳で、大学に課長として出て、半分くらいは40代前半で本省に戻り課長補佐としてさらに高いレベルで政策立案・執行に携わる。大体46~47歳で大学の部長として出る。こういう彼らだから、例外はあるが、知識、識見、仕事のスピード、人脈、判断力、実行力において大変優れている。彼らの問題は、在任期間が平均して短いことから、どうしても腰掛け的な中途半端な気持ちで仕事に取り組むことと、もう一つは、任期が短いこととも関連するが、彼らに中長期の目標がないこと。○○大学○○課長に命ずるという辞令をもらっても、やはり2~3年で代わるという気持ちがどこかにあるから、大学のこともあまり本気で勉強しないし、まして2年か3年の在任中に、リスクを冒してまで何か新しいことや改革をやろうかということがない。部課長の人事をどうするか、彼らに目標・課題を考えさせる、学長がそれを与えることは学長の責任である。
- 学長に人事権があるわけだし、事務局長をはじめ部課長が学長のビジョンを共有して、学長のために働いてくれるかどうかは、大学改革を進める上で極めて重要。逆に言えば、漫然と事務局人事を容認しているようでは何も変わらない。特に、事務局長は学長の右腕であり、事務局長が大学改革、教育改革、事務改革に意欲を持っているかどうかは決定的に重要。学長の人事権は、なかなか教員には及ばないが、職員には直接発動することが可能なのだから、幹部職員人事、若手の抜擢、外部人材の登用などで、是非特色を出してほしい。いずれにしても、学長は、幹部職員候補に直接会って、私のビジョンはこれだと説明をした上で、協力してくれるかどうか「踏み絵」をすべき。特別な事情があれば別だが、学長がこれをしてほしいと言っているのに、そんなことはできませんとは絶対言えない。学長が無理無体な要求、理不尽なことを言っているのでない限り、文科省の人事課長は「君は明目から○○大学の人間になるのだから、学長の方針に従ってしっかり頑張れ」というしかない。大学に人事案を提示した段階では、もう全国の大学のポスト調整は終わっているから、今更人事の差し替えはできない。いずれにしても、学長がもっと人事権をしっかり責任持って行使をする責任がある。
- 学長がその人を評価して、その人にいてもらいたいと思えばいてもらえばいい。ただ、学長も6年しかいない。だからその人の人事に責任を負えない。すると「45歳でお前を理事にするからこの大学に残ってくれ」と言われても、学長が代った途端に「お前はもう要らない」と言われることがあると困るわけで、結局は定年まで面倒を見てくれる文科省の指示に従って2年ぐらいで代わる道を選ぶ。文科省が理事にするのは、平均して50代半ば。いくら大学の要請だからといってそのルールを破って、若くして理事になったら、文科省は「じゃあ、これからは自分の人事は自分で面倒を見るということだな」となる。6年やって51歳になって、「今度学長が代わって、私クビですから、何とかしてください」と言っても、「知らん」ということになる。「お前は自分で横破りをやったんだから、あとは自分で勝手にしろ」となる。だからみんな文科省の人事に忠実に動いている。
- 文科省は管理運営の効率化を求めているが、ひょっとするとこれは口先だけかもしれない。国立大学の幹部職員の人事を見ていると、少なくともこれまでは「改革ができるかどうか」という観点から適材適所をしているようには見えず、従来の年功序列型に戻っているように見える。具体的に言うと、改革を行っても行わなくても、具体的な成果を挙げても挙げなくても、その後の人事にあまり影響がないということ。
- 部課長の面談をやった。事前にこちらで質問内容をいろいろ練り、来てもらって1入最低30分、長ければ1時間の個別面談を全部やった。それをやって明らかに失望した。「この人達は大学改革とか法人化ということに体を投げ打ってやるという気概はない」と痛切に感じた。この人達はもう一度面談をやってもあまり意味がないと思った。
- 全国異動で回っている人は腰掛けが少なくなく、愛情もない。国立大学の事務部の中枢と言われ、本人達もそう考えている財務部の機能の多くは、いわゆる統制機能。言い換えれば、教育研究の現場である学部や大学院、図書館や病院などがきちんと規則、法令に則って会計処理をしているかのチェックが財務部の仕事の過半を占めていて、それはしばしば現場の教育、研究上の要求に縛りというか制約をかける動きになる。逆に、学生部や国際交流部といった学生支援、教育研究支援機能を担う組織は人的資源の面からも財政的にもおざなりになっている。だけどそれを変えようと思ったら、それこそ身内から袋叩きに遭うような改革をやらなければいけない。そういう状況の中で、どうすべきか。生え抜きの人を育て、抜擢し、広域人事で回ってくるいわば任期付きの部課長や民間から登用した外部人材を組み合わせ、有効活用しなければならないのだが、学長や教員出身の総務担当理事ではなかなか難しいし、2年、長くても3年くらいで代ってしまう文科省出身の理事も、それだけの意思と理解と胆力を持った人材はそうそういるわけではない。企業から優秀な人をとっても、1人や2人では、大学内におけるインパクトは限定的。学長にリーダーシップがあって大学改革にかける思いがあっても、それを形にする人、要するに教授会に出かけていって、反対意見に凝り固まっている教員を説得して勝てる人間、最後はそういう人間を育て、外部から登用するというのが1つのキーだ。
- 最近、文科省の幹部に「今のような緊張感を欠いた、従来の延長型の幹部職員人事を続けているようでは、法人化は失敗する。大学の現場は、運営費交付金の削減や評価の強化、新たな業務の急増で疲弊しており、早急にガバナンス改革、事務改革、人事制度改革、財政改革を断行しないと大変なことになる。こういう改革に本気で取り組む意欲のある人材を、ある程度の期間送るようにしないと、そのうちにもう文科省の人はお断りしょうということになる。そのくらい、現場の学長や生え抜き職員の目は厳しい」と頼まれもしないアドバイスをしてきた。
- 幹部職員の人事権は学長にあるわけで、学長が代わったときに部課長全員を呼んで「踏み絵」をさせるぐらいでなくてはいけない。もちろん、これは学長が大学運営に関して明確なビジョンを持っているという前提。ビジョンを持っている前提で、そのビジョンを共有できるかどうかと。学長ビジョンは全部事務職員組織に還元できるはず。それぞれ課長、部長にそれを具体化する方策を考えさせるということ。そういう具体的な目標を与えられれば、必死になって考える。文科省から来る人でも内部登用する人でも最低限そのポストには4年は居ていただかないときちんとした成果の見える仕事はできないし、結果責任も問われない。もちろん最初の6ヵ月は、いわゆる「試用期間」ということにして、緊張感のある仕事をしてもらう。この段階で、うちの大学の管理職としては不適格ということになれば、残念ながらお引取りをいただく。
- 文科省と国立大学の関係は、世間で言う本社と支店、子会社の関係ではない。人事面で対等の、メリット・ベースの採用をする必要がある。文科省の人も、元々仕事はできる人が多いが、大学に出た途端に、あるいは2年ごとに大学を変っていくうちに管理職としての緊張感が薄れる人がいる。いずれにしても、幹部職員の人事に関しては、発令の2~3週間前に文科省から人事異動の内示があってから、適任かどうかなんて考えていたのでは間に合わない。内示から着任まで課長で2週間、部長でも3週間しかない。この段階で、本人に会って能力や意欲を確かめても、人事の差し替えはほぼ不可能。どの部課長がそろそろ変わる時期か、というのは人事課に聞けばだいたいわかるから、その前に学長自ら本省に出かけていって「うちの大学では、こういう人(例えば、「広報体制を一新し、志願者の50%増を実現する課長」、「本部事務組織の職員を3年間で10%削減する事務局長」)がほしい。最低4年間は、大学にいてもらう」という具合に、具体的な条件を出して交渉すべき。事務職員、とりわけ幹部はそのくらい重要。
- 「若くて元気がいい」というような、抽象的で曖昧模糊とした条件は、本当に意味のある条件ではない。「若くて元気が良くて、何もしない」事務局長だっている。問題は、「改革マインドがあるかどうか」「学長のビジョンを共有してくれるかどうか」「文科省ではなく、大学を向いて仕事をしてくれるかどうか」であり、そのことを明らかにするために、重点課題を示した「課題リスト」を提示し、できるかどうか具体的に尋ねること。改革できるのであれば、年齢や東大を出ているかどうか、キャリアかノンキャリかなんていうことは大して意味がない。だからそれを言わない人事であれば、はっきり言うと文科省は楽。だからごまかしの効かない条件を出すべき。そうすれば文科省は、○○大学の事務局長候補として考えている人を呼んで「学長からこういう条件を出されたから、従ってほしい」と言うしかないし、当人もとんでもない条件でない限り、その段階で「できません」とは言えない。できませんと言ったって人事をはめ込んでしまったからお前はここに行くしかないと言われるだけ。何事も、最初が肝心。いったん理事や事務局長として来てもらったら、あれこれ条件をつけるわけにはいかない。
プロパー事務職員の登用を
- プロパーの事務職員の登用と教育というのが1つのポイント。民間企業の経営者は次代の経営責任を負う人間、人材を育てなければならない。育てて、評価して、選抜して、さらに鍛える。こういう意識が今の大学にはない。事務職員から理事を含めた登用のチャンスというのは、何か人事制度で考えないといけないし、そのためには本当に育てて、選んで、評価してというプロセスが要る。特に大学で弱いのは、評価して選ぶというところ。教員はまず自分の仕事の価値を評価されることは論文以外では望まない。だから、個人評価制度などというのは未だに抵抗がものすごくある。それから事務職員の評価はやるけれども、それがせいぜい勤勉手当の評価にしかならない。民間企業だったら、いい仕事をしたら人に先駆けてどんどん昇進できる。そういうcompetitionの土壌が大学にはない。そういう競争原理を持ち込まないといけないのではないか。大学の経営陣は、自分達の下から未来の経営陣を育てなければいけないという意識を強く持つ必要がある。
- 今まで国の出先機関時代に、いわゆる事務局長とかの幹部職員に将来なってもらうような人材育成を大学がやってこなかったツケが、法人化になって出てきている。そういう対応ができる人物が大学内にまだ育っていない。結局法人化以降も、広域人事で、文科省の人事で来ているし、部長、課長以上全員が文科省の人事。だから、本当にがんばってこの大学を背負って行こうという士気の高い事務職員は少ない。まずは早期に人材育成をやって、役員の1人ぐらい、事務局長ぐらいはプロパーがなって、課長の半分以上はプロパーの職員がなるということをやらないと、本当の意味での職員の意識改革はできない。
- 文科省から、幹部職員として優秀な人が来てがんばっているのは十分知っているが、少なくともプロパーの職員もがんばるような環境作りもある面で必要。それが大きなウエイトを占める。そういう意味で、ほとんど全部の幹部職員が広域人事じゃなく、半々でもいいから、少なくとも半分は地元の人で、ずっとがんばってきた優秀な人を育てて、その人達が事務局の課長なり、部長、そして場合によっては事務局長になるという道が開かれていないと、やっぱりやる気が出てこない。
- 広域人事ばかりでは、大学の故事来歴、教員一人ひとりの研究活動についての理解がないとか、ロイヤリティがないとか、腰掛けということになる。また、人事権を持っている文科省の意向ばかり気にして、本当に大学のために文科省であろうがどこであろうが、主張すべきは主張するということができないという批判もある。逆に大学の中で育ってきた人間は、中のことはよく知っているけど、外の世界を知らない。大学に20年、30年いるからといって本当に教員のことを知っているか、本当の意味でロイヤルティがあるかというとまた別の話。要は、プロパーの職員、企業や文科省、経済産業省、地方自治体の行政官、各分野の専門家などのベストミックスを考えることが大切なのではないか。