2009年8月20日木曜日

沖縄旅行記 2009 (5)歴史を学ぼう、戦跡参り

渡嘉敷島到着後、まずは戦跡を回りました。


1945年の沖縄戦において、慶良間諸島では痛ましい出来事がありました。米軍は、沖縄本島上陸作戦として、まず、慶良間諸島に砲爆撃を行い上陸しました。

日本軍と住民は、米軍に追われて山の中に逃げ込みました。パニック状態に陥った人々は、逃げ場を失い、北端の西山に追い込まれました。そこで、悲惨な「集団自決」が起こったのです。

家族親戚が身を寄せ合い、あらかじめ配られた手榴弾の栓を抜き爆死を試みました。しかし、前日からの豪雨で発火しませんでした。そのことが逆に、この世のものとは思えない凄惨な光景を生んでしまいました。

鎌、鍬、カミソリ、あるいは縄を使い、身内同士の殺し合いが始まり、自ら生命を絶っていったのです。(国立沖縄青少年交流の家ホームページから)


集団自決跡地
交流の家の東展望台へ向う途中にあります。





白玉之塔

戦没者の御霊が祭られています。交流の家から港方面へ向う左側にあります。



米紙記者が見た沖縄戦 渡嘉敷島の集団自決 (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から)

【琉球列島、3月29日(遅)AP】

米国の「野蛮人」の前に引き出されるよりも自殺する方を選んだ日本の民間人が、死体あるいは瀕死(ひんし)の状態になって折り重なった見るも恐ろしい光景が、今日慶良間(けらま)列島の渡嘉敷島に上陸した米兵たちを迎えた。

最初に現場に到着した哨戒(しょうかい)隊に同行したニューヨーク市在住の陸軍カメラマン、アレキサンダー・ロバーツ伍長は「いままで目にしたものの中で最も凄惨(せいさん)」と現場の様子を表現した。

「我々は島の北端に向かうきつい坂道を登り、その夜は露営した。闇の中に恐ろしい叫び声や泣き声うめき声が聞こえ、それは早朝まで続いた」と彼は語った。

散乱する死体

「明るくなってから、悲鳴の正体を調べにいくためにニ人の偵察兵が出ていった。彼らは二人とも撃たれた。その少し前、私は前方6ヵ所か8ヵ所で手榴弾が炸裂(さくれつ)し炎が上がっているのを見た。ひらけた場所にでると、そこは死体あるいは瀕死となった日本人で埋め尽くされていた。足の踏み場もないほどに密集して人々が倒れていた」

「ボロボロになった服を引き裂いた布ぎれで首を絞められている女性や子供が、少なくとも40人はいた。聞こえてくる唯一の音は、怪我をしていながら死にきれない幼い子供たちが発するものだった。人々は全部で2百人近くいた」

「細いロープを首に巻きつけ、ロープの先を小さな木に巻きつけて自分の首を絞めた女性がいた。彼女は足を地面につけたまま前に体を倒し、窒息死するまで首の回りのロープを強く引っ張ったのだ。彼女の全家族と思われる人々が彼女の前の地面に横たわっており、皆、首を絞められ、各々汚れた布団が掛けられていた」

「さらに先には手榴弾で自殺した人々が何十人もおり、地面には不発の手榴弾が転がっていた。日本兵の死体も6体あり、また他にひどく負傷した日本兵が2人いた」

「衛生兵は負傷した兵士らを海岸へ連れて行った。後頭部に大きなV字型の深傷(ふかで)を負った小さな男の子が歩き回っているのを見た。あの子は生きてはいられない、今にもショック死するだろう、と軍医は言った。本当にひどかった」

軍医たちは死にかけている人々にモルヒネ注射をして痛みを和らげていた、とロバーツ伍長は語った。負傷した日本人を海岸の応急救護所まで移そうとしている米軍の担架(たんか)運搬兵らを、道筋の洞窟に隠れていた一人の日本兵が機関銃で銃撃した。歩兵らがその日本兵を阻止し、救護活動は続けられた。

質問に答えられるまでに回復した日本人たちは、米国人は女は暴行、拷問し、男は殺してしまうと日本兵が言ったのだと通訳に話した。彼らは、米国人が医療手当てをし、食糧と避難所を与えてくれたことに驚いていた。自分の娘を絞め殺したある老人は、他の女性が危害を加えられず親切な取り扱いを受けているのを見て悔恨(かいこん)の情にさいなまれていた。(沖縄県教育委員会刊「沖縄県史 資料編3 米国新聞に見る沖縄戦報道」より)


二つのガマ-82人の<死> (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から)

妄信ということについて考えてみる。この言葉がイメージする結果の何とも言いようのない虚しさについてである。

物事をただ「やみくもに信じ」たり、「むやみやたらに信じる」などということはよいことではないが、そんなことがつい50年ほど前、日本中でまかり通った。

信じてよいものと、信じてはならないものをどう見極めるか。そして、信じてよい相手か否かをどう分別するかが大事なのに、物事を無批判に信じ込んで何とも思わなかったのである。

正しい価値観と科学的な歴史観に裏打ちされた物差しを持たなかったことが、自分ばかりか他人をも不幸や不利益に落とし込んだ。

天皇への妄信に明け暮れ、「一億火の玉」を叫んで国民そろって同方向を目指したあの時代、沖縄という小さなシマ社会のなかで起きた住民の集団「自決」は、妄信がもたらした究極の悲劇と言ってよいであろう。

敵に捕まったら男は戦車でひき殺され、女はもてあそばれる。

米軍の上陸を迎えた沖縄ではこうした伝説-といっても、これは日本軍が中国大陸でやったことであり、それゆえに米軍もそうするであろうと思い込んだのだが-が流布され、誰もが信じた。その結果、そんな惨めな死に方をするよりはと、いい歳をした男や女たちが自分の子供たちまで巻き添えにして自殺するケースが相次いだ。根拠のない伝聞を無批判、かつ事大主義的にうけとめて吹聴してやまない地域社会の特性と、大洋のなかの孤島という閉ざされた社会がそうした妄信を増幅した。

「敵に捕まったら殺される」

「サイパンでもこうやって、天皇陛下バンザイして死んだんだ。日本人ならそうすべきだ」

いまから見れば何ともばかげたことだが、こうして読谷村のチビチリガマ(ガマ=洞穴)では米兵の熱心な投降説得を拒んで82人が命を絶った。このうち47人は12歳以下の子供たち。”大人の論理”の巻き添えである。放たれた火と煙で窒息死したり、毒薬注射を打たれたりして死んだ。慶良間諸島などで頻発した集団死も大同小異だ。

沖縄ではもちろん、そうした不幸を引き起こした原因を「当時の日本の教育」に求める声が圧倒的に多い。そういう人たちは「戦陣訓」や「教育勅語」を例に出し、あの時代は「敵に捕まるよりは死ね」と教えられていたと口にする。たしかに遠因としてはそのとおりである。しかし、そこにすべてを求めるのは一面的にすぎないか。チビチリガマの場合、直接的には日本軍とは無縁の「自決」であった。ましてガマのなかの半数は子供たちであった。選択肢はあったはずである。

事件の責任をすべて「時代」と「天皇」のせいにしてしまえば問題は簡単である。そうすれば、自分たちは互いに傷つくこともなく、共同体社会の解決法としては好都合かもしれない。しかし、それでは真実はかくれてしまう。ほんとうの解決は図れないし、後々のためにもならない、とぼくは思う。


(つづく)


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