我が国は今日(8月6日)、広島原爆の日を迎えました。
毎年この時期になると、戦争を振り返る報道が多くなります。
被爆国として、敗戦国として、戦争の無残さを心に刻み直し、平和への希求を改めて考えるよい機会だと思います。
米国・オバマ大統領の「核兵器のない世界」演説が実効性を持って機能する世界、人と人が殺しあう戦争・紛争のない世界の実現を心から願って止みません。
今日は、最近の「天声人語」(朝日新聞)をご紹介します。
8月5日付
この時期に曇天が続くと、どうにも落ち着かない。五感に染み込んだ日本の8月といえば、青空、蝉(せみ)しぐれ、かき氷。そこにはいつも、追憶の香煙が薄くたなびく
「八月の空がまぶしく、かつ青ければ青いほど、なぜか戦争への思いが深まります。八月の空と海。父の愛した空と海が、ともに青く澄みつづけるように、二度と惨劇の舞台にならないように、と願うばかりです」
『城山三郎が娘に語った戦争』(朝日文庫)で、亡き作家の次女井上紀子さんはそう記す。皇国を信じ、裏切られた。海軍体験に根ざした城山さんの反戦思想は筋金入りで、とりわけ非道の極み、自爆攻撃の特攻を憎んだ
沖縄の海に散った22歳の慶大生が、出撃前夜にしたためた一文から引く。「権力主義の国家は一時的に隆盛であらうとも必ずや最後には破れることは明白な事実です・・・明日は自由主義者が一人この世から去つていきます。彼の後ろ姿は寂しいですが、心中満足でいつぱいです」
死を前にこれほどを書き残せる若い知性が、何千何万と理不尽な最期を強いられた。この遺書を著作で紹介した保阪正康さんは、「日本の戦時指導者への最大の告発のように思えてならない」と断じている
忘れてならない魂の叫びは、世界に散らばる。『アンネの日記』が先日、人類が残すべき史料としてユネスコの記録遺産「世界の記憶」に登録された。そのユダヤ人少女が、隠れ家から強制収容所へと連行されたのは65年前のきのうだった。国を問わず、有名無名の生を記憶に刻み直す夏である。
8月6日付
使ってしまった国の大統領が廃絶を口にし、隣国の独裁者が実験を重ねる核兵器。かすかな希望と、空恐ろしい現実のはざまで、広島原爆の日を迎えた。あの時生まれた命は64歳になるのに、人類の歩みの、なんと遅いことか
原爆の夜に交錯した生と死。詩人、栗原貞子さんの代表作「生ましめんかな」は、地下室での出産劇を描いた。4年前に没した詩人宅から、未発表の86編が見つかったという。「こえ」はこう始まる
〈その日、生きのこった人々は/いろとりどりの夏の花と/線香をその前に供え/あの日の悲しみをつみ重ねるように/花と線香の山をつくった。/焙(あぶ)るような光のなかで/香煙は碑をつつみ/人らは目をとじてぬかずいた・・・〉
モノクロの風景として、1955(昭和30)年の原爆忌が残る。平和公園は立ち退き前の民家で雑然とし、まさに焙る光の中、ひしめく参列者の頭上を煙が流れる。地元の写真家明田弘司(あけだ・こうし)さん(86)による一枚だ
近刊の写真集『百二十八枚の広島』(南々社)で、悲憤だけではない被爆地を知った。50年代を中心に、他の焦土と同じか、それ以上の力強さで復興していく街がそこにある。原爆ドーム前に現れたお好み焼き屋、被爆瓦を観光客に売る露店。まずは生きなければならない
街は戻り、新たな命が平和の時を生きる。だが、戻らぬ時と帰らざるものを語り継ぐ人たちは老いていく。一瞬で、あるいは長い苦しみの果てに消えた命たちに、そろそろ報いたい。利いたふうな現実論は、核廃絶への歩みを鈍らせるだけだ。
(関連)鎮魂(2008-01-19 大学サラリーマン日記)