8月3日(月曜日)、全国初の裁判員裁判が、東京都足立区の隣人殺害事件を対象に東京地裁で開かれました。
裁判員制度の是非、裁判員裁判の状況に関する報道がここ2~3日紙面を賑わせています。
全くの偶然ですが、裁判員裁判が始まった日、なんと私は仕事で裁判所の法廷にいました。
といっても裁判員としてではなく、大学を当事者とする公判の傍聴者としてです。
大学には様々なリスクが存在し訴訟に繋がるケースもあります。
トラブルの原因は、たわいもないことことだったりすることが少なくなく、小さな芽の段階でどうして摘み取ることができなかったのだろうと悔やまれることがあります。
国立大学は、国の時代には、訴訟は人的にも財的にも全て国家が面倒見てくれましたが、法人化後は、訴訟費用は自己財源から捻出し、弁護士も自分で雇い裁判を闘わなければならなくなりました。
そのために、保険に入る必要がありますし、国が面倒を見てくれなくても、なぜか法務省や文部科学省への報告は逐次行わなければなりません。
訴訟のために多くの時間や労力を裂かなければならなくなり、業務の停滞を招くことが多くなりました。
日常のリスク管理の徹底、内部統制体制の強化は、いまや健全な大学経営の大きな柱の一つになりました。
さて、私が出向いた法廷では、原告・被告双方の証人尋問が休憩なしで2時間続きましたが、黙って聴くだけの傍聴でさえ頭痛がしてくるほど疲れましたので、幸か不幸か裁判員に選ばれた方々は、本当に重労働を課せられているのだろうと敬服した次第です。
それにしても、最近の報道は、裁判の内容より裁判員のことに偏った記事が多いようですが、違和感があるのは私だけでしょうか。
(参考)「国民の視線にさらされる裁判」(NHK解説委員室)