それは、6月30日。
沖縄・うるま市の小学校に、嘉手納基地を飛び立ったアメリカ軍機が墜落し、宮森小学校の児童11人と近隣の住民6人が死亡した悲しい事故から51年が経ちました。*2
沖縄は、いつまで基地の危険にさらされなければならないのでしょうか。
沖縄米軍機事故51年 墜落語る34年後の決意(2010 年7月1日 朝日新聞)
息子犠牲 慰霊碑に誓う
沖縄県うるま市の宮森小学校に1959年、米軍嘉手納基地の戦闘機が墜落した事故から30日で51年を迎えた。児童11人、住民6人が犠牲になったとされる事故に、もう一人の犠牲者がいた。やけどの後遺症に苦しみ、17年後に亡くなった新垣晃さん。校内の慰霊碑に今年、初めてその名が刻まれた。
晃さんは事故当時、小学2年生。母親のハルさん(81)は事故を思い出すと、いまでも動悸がとまらなくなる。
職場だった嘉手納基地で事故の一報を聞いた。病院に駆けつけると、髪の毛がちりちりに焼け焦げ、頭に破片が突き刺さった晃さんの姿があった。ハルさんは覚悟した。「一緒に死んだ方がいい」
晃さんは全身に大やけどを負ったが、奇跡的に回復。高校時代には中距離走の沖縄県記録を樹立するほどまでに元気になった。だが、陸上部で一緒だった玉城欣也さん(59)は、体育教師を目指す晃さんがこう話したのを覚えている。「体の踏ん張りがきかない。汗が出ないんだ。医者から命にかかわることだと言われている」
晃さんは72年に琉球大に合格し、念願だった陸上部に入った。だが、めまいなどの症状に苦しんだ末に、発汗機能の低下から腎臓が働かなくなり、76年2月に23歳で亡くなった。
ハルさんは米軍基地で働きながら、晃さんを女手一つで育ててきた。父親は職場で知り合った米兵だが、妊娠も知らぬまま本国へ帰っていった。「将来、父を捜しにアメリカに行く」。晃さんがいとこに打ち明けていたのを知ったのは後のことだ。
晃さんの死後、ハルさんは口を閉ざした。米兵の子という複雑な立場。戦場のような事故の記憶を、思い出したくなかったのだろう。
そのハルさんのもとを昨年、宮森小の卒業生が訪ねてきた。惨劇を伝える資料館をつくろうと奔走する彼らに、ハルさんは初めて事故の記憶を語った。
「晃にも『僕の代わりに、伝えて』と言われているような気がして・・・」
30日朝、宮森小で開かれた犠牲者の追悼集会にハルさんは足を運んだ。「晃も寂しかっただろうね。いまごろは、とっても安心して、みんなと一緒に集まって、平和を祈っているかもしれませんね」。涙が止めどなく流れたが、ハルさんは来年もこの場所を訪れようと思っている。
宮森小の慰霊碑には今年、晃さんのほか、周辺住民6人の名も新たに刻まれた。
ぜひ、ご覧ください。こどもを失った親の悲しみを・・・。
忘れたい 忘れてほしくない~宮森小 米軍機墜落事故から50年~(1)
忘れたい 忘れてほしくない~宮森小 米軍機墜落事故から50年~(2)
忘れたい 忘れてほしくない~宮森小 米軍機墜落事故から50年~(3)