百聞は一見にしかず。目の前に広がる美しい海と砂浜を埋め立て、多くの貴重な生物を死滅させることが私達人間に許されているとは到底思えませんでした。
上空から見た辺野古の風景
出典:海上ヘリ基地建設計画 沖縄・一坪反戦地主会
出典:辺野古アセスを徹底検証 代替施設移設予定地の概要
辺野古の海岸線、前方に米軍キャンプ・シュワブがある
最近、米軍基地問題に苦しむ沖縄のこれまでとこれからを考えさせられる一つの記事に出会いました。ネット上で検索できませんでしたので、全文転載します。
沖縄漂う虚脱感 本土に届かぬ声(2010年9月12日 朝日新聞)
「チルダイ」。落胆のあまり全身の力が抜けることを意味する沖縄の言葉である。
沖縄県名護市の久辺中学校は辺野古の海を望む高台にある。屋根が赤くさびた体育館は隣の小学校との共用だ。今年度から建て替えられる予定だったが、工事は夏休みを過ぎても始まっていない。
米軍普天間飛行揚の移設と引き換えに、防衛省から市に入るはずだった年間10億円の米軍再編交付金の支給が決まらないためである。
「市長が反対しているから、ストップしてしまった。あの時の選択は正しかったのだろうか」。1月の市長選で移設反対の稲嶺進市長に投じた男性(56)は悩んでいた。
辺野古の元区長。国に逆らってもどうせ造られる。と一度は反対から容認に転じた。「基地はないにこしたことはない」。一度はあきらめかけた思いを呼び覚ましたのは、昨年の政権交代だった。市長選で基地問題は終わった、と思った。
だが、交付金を使った政府の揺さぶりに辺野古は再び割れつつある。「いつまで名護だけがこんな思いをしなければならないのか」
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政権交代は何だったのか--。稲嶺市長擁立の中心になった島袋正敏さん(67)も考え込んでいる。
「基地問題に関しては民主政権も、自公政権と変わらない。すべてを金で解決しようとする。こんなやり方で市民を納得させられると思っているのでしょうか」
地元文化の保存に長年、取り組んできた島袋さんは政府の振興策に批判的な目を向けてきた。1997年の市民投票で示された「反対」の民意は当時の市長の受け入れ表明で覆され、移設反対の市長に代わってもその声は届かない。12日の市議選も移設容認だった前市長派との争いだ。
「いつまで名護だけが争い続けなければならないのか。活路を見いだせないんですよね。日米安保をどうすべきか、国民に議論してほしいのに、いつも沖縄だけの問題にされ、全国の問題にならない」
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辺野古の南隣にある久志地区は、住民代表がつくる行政委員会が反対の意思表示を続けている。集落のすぐ西には米軍演習場が広がり、深夜まで集落の上空をヘリが飛ぶ。委員長の森山憲一さん(68)は言う。
「本土の人にとっては終わった問題かもしれませんが、私達はそうはいかない。沖縄は沖縄で、自分たちの力で解決する。それが沖縄がたどってきた道。宿命なんです」
72年の本土復帰後も、95年の少女暴行事件後も、そして、09年の政権交代後も、どんなに訴えても広大な米軍基地を強いられ続ける現実を前に、沖縄の人々は「チルダイ」するしかなかった。本土に伝わらないもどかしさ、沖縄の中で争う悲しさ、孤立感。島は重苦しい空気に覆われている。
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ヤマトよ 偽善だ 「沖縄はかわいそうと言いながら・・・」 「痛み伝えぬ本土メディア」 地元の声、すくえぬ政治
普天間飛行場の周辺住民が起こした「爆音訴訟」の原告団長の島田善次さん(70)は7月、福岡高裁那覇支部であった控訴審判決後の会見で、居並ぶ記者にまくしたてた。
「鳩山さんが『県外』と言った後、日米同盟が破綻すると朝白新聞はじめ各新聞が騒ぎ出した。沖縄の現実をもっときちんと報道してほしい。安保が必要、抑止力が必要というのなら、まず自分のところに持っていきなさい」
牧師の島田さんが普天間のゲート前で1人で座り込みを始めたのは1979年。生まれたばかりの娘がヘリの騒音に泣きわめき、乳を吸わなくなったのがきっかけだった。
周囲からは「基地が動くわけがない」と笑われ、当時の宜野湾市長に面会を求めても「基地は金のなる木」と取り合ってもらえなかった。約400人の原告団を率いて提訴したのは23年後。損害賠償は認められたが、最も強く求めた深夜早朝の飛行差し止めは退けられ続けている。
同じ苦しみを辺野古に押しつけられないという思いがなぜ伝わらないのか。「日米安保は大事だと言い、沖縄はかわいそうと言いながら、痛みを受け入れようとはしない。ヤマトの偽善だ」
全国紙を批判
地元紙の沖縄タイムスは7月末の社説で島田さんの発言を取りあげ、朝日、毎日、読売の3紙の実名を挙げて異例のメディア批判を展開した。
《沖縄だけに基地を押し込める日米両政府の従来政策はなぜか検証されない》《「同盟危機」という言葉が思考停止を起こさせた》
沖縄タイムスの屋良朝博論説委員(48)は言う。「海兵隊がいないと本当に抑止力が維持できないのか。なぜ沖縄なのか。本土メディアは日米安保のあり方に踏み込まず、『沖縄なら仕方ない』で済ませてはいないか」
《アメリカは怒っている》《日米同盟がもたない》--。政権交代以来、繰り返し報じられる日米の当局者の大合唱を前に、沖縄からの訴えはか細く、かき消された。
55年1月、米軍統治下の沖縄での「銃剣とブルドーザー」による強制的な土地接収を本土に初めて伝えたのは朝日新聞だった。沖縄に記者を常駐させることもできなかった時代だ。
本土メディア不信が広がり始めたのはいつだったのか。琉球大学准教授(マスコミ論)の比嘉要さん(46)は04年8月、沖縄国際大学に普天間の米軍ヘリが墜落した事故で、地元紙に比べて全国紙の地味な扱いに驚いたという。
「沖縄の痛みが本土には伝わっていなかったことを県民は改めて認識したのです。これまでの積み重ねです」
沖縄を裏切るのか。また切り捨てるのか。沖縄から上がる声は、鳩山由紀夫前首相だけに向けられたものではない。
守るのは自分
宜野湾市消防本部の大川正彦さん(45)は沖縄国際大の米軍ヘリ墜落現場で消火活動にあたった一人だ。立ち上がる炎までは10メートルほど。「爆発しないでくれ」。祈るような思いだった。
鎮火後、実況見分しようと近づくと、米兵が立ちはだかった。腰の銃に手をかける米兵もいた。事故から1週間、遠巻きに米軍の調査を見守るしかなかった。「ここは日本じゃないのか」
普天間飛行場の中には、大川さんの父が残した土地がある。沖縄戦で壕に隠れて生き延びた父の家族が、収容所に入れられている間に米軍に奪われた畑だ。
宜野湾市の安仁屋真昭さん(70)は事故を知って68年の体験を思い出した。
米軍統治下の沖縄を離れていた時だ。数学科助手として勤務していた九州大学(福岡市)に米軍機が墜落した。大学側は米軍による墜落機の回収を拒み、焼け焦げた機体を半年以上もキャンパスにさらして危険性を訴えた。4年後、墜落機が所属していた基地は返還された。
「この違いは何なのか。日本に切り捨てられた沖縄は今も占領状態だ。自分の身は自分で守るしかない。これまでも、これからも」
迷走する民主
こうした声をすくい上げるはずの政治は混乱したままだ。96年の普天間返還合意以来、過去3回の知事選は、県内移設の是非が最大の争点だった。結果は容認派の3連勝。だが、今回は自民から共産までが「県内移設反対」を掲げている。
「普天間はもう争点じゃない。みんな反対なんだから」。仲井真弘多知事(71)の再選を目指す自民県連副会長の翁長政俊県議(61)は言う。
「政権与党として、県民と党本部との間で苦しい思いでやってきたが、もうそんな時代ではない。永田町ですべて決めていては、県民の信頼は取り戻せない」
一方、民主県連はさらに迷走している。今も「県外、国外移設」を掲げてはいるが、知事選では党中央から「県内移設反対の候補は推せない」とくぎをさされ、誰を推すかもさえ決められずにいる。
知事のブレーンでもある琉球大学教授の高良倉吉さん(62)はいう。
「沖縄が求めているのは、同情じゃない。日本の安全保障を国民全体で議論することです。誰が見ても差別的、不公平な状況が日本全体の問題になっていない。沖縄はまだ完全には日本に復帰していないんです」
沖縄は日本なのか-。沖縄で今、繰り返し問われる言葉である。(後藤啓文)
関連サイト
- 辺野古(ウィキペディア)
- わたしたちのまち辺野古-沖縄県名護市辺野古区ホームページ
- 辺野古浜通信 これ以上基地はいらない・・・ 辺野古の座り込み
- ヘリ基地反対協議会
- 辺野古-こんなきれいな海にどうして(きくちゆみのブログとポッドキャスト)
関連過去記事
Okinawa 2010 歴史を学ぼう-普天間基地 (2010年9月8日)
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