2010年9月21日火曜日

国立大学法人の組織文化の限界

前回の日記では、大学職員を目指す方たちが増えているという大変うれしいニュースに触れ、それでは、今求められているプロとしての大学職員とはどういったものなのかについて、広島大学の山本教授の論考を引用しご紹介させていただきました。

大学職員といっても、国公私立という設置形態によって、それぞれ求められる資質や役割は大きく異なってくるのだろうと思いますが、今回は、国立大学法人の大学職員の組織文化について分析し書かれた論考「『知の拠点』を支える人たち(職員編)」(国立大学財務・経営センター研究部 水田健輔氏)をご紹介したいと思います。

ローテーション人事の実際

多岐にわたる部署を異動し、組織の業務に広く通じたジェネラリストを育てる仕組みは、官民を問わず日本の人事制度の特徴といわれてきたものである。法人化前の国立大学は、文部科学省内の部門を構成していたわけであり、当然、ローテーション人事の一部を成していた。では、各大学が独立した法人となって以降は、どのような状況なのか。ここでは、2つのデータを示しておこう。

まず、文部科学省から国立大学法人への出向人事については、「文科省政策創造エンジン 熟議カケアイ」で活発な議論がすでに行われており、法人化後の状況については、このウェブサイトでの意見の応酬を読んでいただければ十分ではないかと思う。また、図2-6(略)にみられる役員人事への影響については、常勤役員総数から教員を除くと、出向者の割合はかなり大きくなるだろう。ただし、この件についても、2010年6月28日の国立大学協会総会で人事交流に関する了解事項と申し合わせが了承されており、より良い制度整備に向けて努力が続けられている。

本連載で取り上げたいのは、こうした側面ではなく、職員の能力開発、職場へのコミットメント、教員との職務分担、キャリアパスの描き方などであり、もう一つのデータを提示して、少し視点を変えてみたい。

図2-7(略)は、法人化後の国立大学の人事異動データをまとめたものであり、どのような初任地と前任地を経て、大学の役員あるいは管理職に至ったかを示している。つまり、いかなる職場で経歴を積んだかという点をより重視してグラフ化した。

まず、部長・課長クラス(以下「部課長等」)への新任異動者を見てみると、初任地も前任地も国立大学である方が6割を超えており、社会人として初めての職場が大学であった方については、8割を大きく上回る。つまり、国立大学というネットワーク上での人事異動を経て、部課長等に至った方が多数派を占めているわけである。もちろん大学内の業務は多岐にわたっており、個別大学の事情も全く異なるが、「大学職員」というカテゴリーで多様な経験を積み、職業人としてステップアップしていく様子が確認できる。

ただし、役員・事務局長クラス(以下「役員等」)になると、様相が一変する。初任地、前任地とも大学である新任役員等は37.1%であり、この中に教員が含まれていることを勘案すると、「大学職員」が役員等経営陣に参加する例は少ない。言い換えれば、部課長等は「大学職員」のキャリア階層に組み込まれているが、役員等に至る道は別に敷かれている道の方が広い。

文化的観点からの説明

ジェネラリスト指向は国立大学職員の持つ強い傾向であり、また官民を通じた日本の組織における人材育成の大きな特徴でもある。米国におけるスペシャリスト指向は、一般に「職務等級制度」の歴史から生まれたものであり、仕事の内容とその難易度に応じた人材を労働市場から調達して当てはめる形で異動が発生する。新卒者を一斉採用して組織内ローテーションで育成する制度とは根本的に異なっているので、両国の違いを人事・給与制度と分けて論じるのは、あまり意味がない。さらに言えば、米国の場合、学位や資格などの客観的評価を得て、市場で価値をアピールしなければ、良いポストを獲得できない。この点については、日本でも状況は変わりつつあるが、まだまだ組織内での評価の方が重視されているのが実情である。要するに、スペシャリストだから能力が高く、ジェネラリストだから前者に劣るということではなく、労働市場の流動性や人事・給与制度上の扱いが違うということにすぎない。

もう一つ、組織文化の視点から次のことを指摘しておきたい。オランダのGeert Hofstedeは、多国籍企業における各国オフィスの文化の違いを調査し、研究成果を発表している。ここでは、2005年に出版された最新成果から、図2-8(略)を紹介する。

この図が示しているのは、日本の組織文化が他国に比較して「不確実なことを極度に嫌い」「組織内の上意下達関係が強く固定している」点であり、Hofstedeは右下に属する国々の価値観を「完全官僚主義」と呼んでいる。行き過ぎた単純化や一般化は慎まなければならないが、国立大学が法人化されて以降の様々な動きがこの二つの特徴でかなり説明できるように思われる。

例えば、政府決定に基づく経営資源の不足に対して、何とか内部で解決しようと努力する。職員が不足していても、教員の協力を得ながら大学の業務進行に支障が出ないようにこなす。困難があっても根を上げることはなく、組織の評価が下がるような行動や報告は慎む。将来的な見通しが立たないことに対しては、求められる以上に身を削り、我慢し、できるだけ慎重に対応する。専門性をもとにした労働市場の流動化よりも、安定した職場で指示に従いながら、力を発揮することを希望する-といった点である。

ただ、こうした姿勢だけでは、もう限界に来ている大学があるのではないかというのが、筆者の疑問であり認識である。日本の組織文化を支えているHofstede的な「受身で我慢強い人達」を中心にして、これからも「何があってもひたすらジッとやり過ごそう」と考えるのか、それとも大学の将来的な「力」を見据えて前進と変化を求めるのか。このあたりの意思決定は学長にゆだねられており、また職員の在り方に深く関係している。そして、連載の第二回目で触れたとおり、学長の姿勢は第一期中期目標期間の間に二極化しつつある。この点について、人的資源のもう一翼を担う教員の動向を踏まえ、次回以降さらに考察を進めていきたい。(本稿中のいかなる意見も筆者の所属機関の公式見解ではなく、筆者の個人的見解である。)(文部科学教育通信  No250 2010.8.23)