中村家住宅は、沖縄建築の様式を残す200年以上前の住居で、フクギと石垣に囲まれた赤瓦が印象的でした。
現地でいただいたパンフでは次のように解説してありました。
中村家概要
今から約500年前、中村家の先祖賀氏(がうじ)は、忠臣かつ琉球王国きっての築城家としてもその名をとどめていた護佐丸(中城城主)が読谷(本島中部)より城を中城に移したとき、共にこの地にその師匠として移ってきたと伝えられています。その後、護佐丸が勝連城主の阿麻和利(あまわり)に滅ぼされてしまうと、中村家の先祖も離散の憂目にあいました。1720年頃、ようやくその家運を盛り返し、この地方の地頭職(本土の庄屋にあたる役職)に任ぜられました。
中村家住宅概要
中村家住宅は戦前の沖縄の住居建築の特色をすべて備えている建物です。沖縄本島内でこのように屋敷構えがそっくり残っている例はきわめて珍しく、当時の上層農家の生活を知る上にも、貴重な遺構であるということで、昭和31年に琉球政府から、昭和47年に日本政府によって国の重要文化財に指定されました。
現存する建物は18世紀中頃に建てられたと伝えられています。
建築構造は、鎌倉・室町時代の日本建築の流れを伝えていますが、各部に特殊な手法が加えられて、独特な住居建築になっています。
この遺構は、士族屋敷の形式に農家の形式である高倉、納屋、畜舎等が付随して沖縄の住居建築の特色をすべて備え持っています。
屋敷は、南向きの緩い傾斜地を切り開いて建てられており、東、南、西を琉球石灰岩の石垣で囲い、その内側に防風林の役目を果たしている福木を植え、台風に備えています。
見取図画像
正面の壁は、ヒンプン(顔隠し塀)といい、門の内外との仕切りで、
外から直接、母屋が見通せないようにした目隠しの役割をしている
中国の「ピンフォンメン」が沖縄化したもの
その昔、沖縄ではヒンプンを挟んで男性は右側から出入りし、
女性は台所へ直通するためその左側を使用していたといわれている
ウフヤ(母屋)[左奥]、アシャギ(離れ座敷)[右]
手前から、一番座(客間)、二番座(仏間)、三番座(居間)
裏には各一間づつ裏座があり、寝室、産室として使用された
三番座の前方にはナカメー(中前)という板間がついている
畳間は、すべて6畳かそれ以下で、当時の農民にはその大きさしか
許されていなかったといわれている
柱は、琉球王府時代に首里の士族の家屋を移したと伝えられている
柱のすべて、当時農民には使用を許されていなかったチャーギ(イヌマキ)、
イーク(モッコク)が使われている
当時、近くの中城間切(現在の中城村と北中城)の番所(役所)へ、
首里王府の役人が地方巡視に来た際に、宿泊所として使用したといわれている
沖縄在来の形式である丸柱ではなく、住居と同じ角柱を用い、
壁・床とも板張りであるのが特徴
屋根裏の部分に施された傾斜を、別名「ネズミ返し」といい、
ネズミが穀倉に入れないように工作されている
屋根は本瓦ぶき(明治中期まで竹茅ぶき)、漆喰塗りで、
屋根の上には魔除けのシーサー(獅子)がおかれている
中二階の棟で、一階は腰石壁で畜舎、二階は黒糖製造用の薪置き場
畜舎の前の柱には、牛や山羊をつなぎ止めても、
柱が土台から外れないように工夫が凝らされている
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関連リンク 中村家ホームページ
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