「教育改革は、企業や社会が取り組むべき課題である」(出口治明:ライフネット生命保険株式会社代表取締役社長、ダイヤモンド・オンライン)からの抜粋をご紹介します。
大学院の充実が喫緊の課題ではないか
人類が未だ経験したことのない困難で複雑な課題を解決していくためには、優秀な頭脳が必要であることは言うまでもあるまい。
このような観点でわが国の教育を考えたとき、大変、気になるデータがある。それは、高等専門教育機関である大学院在学者の人口千人当たり人数である。文部科学省が公表している「教育指標の国際比較 2011年版」によると、わが国の2.13人(2010年)に対して、アメリカはフルタイムの在学生が4.74人、パートタイムの在学者を含めると実に8.77人(2007年)に上る。英国は、フルタイムで4.09人、パートタイムを含めると8.33人、フランスでは8.11人(2008年)、お隣の韓国では6.29人(2009年)と、いずれもわが国の3倍から4倍の水準を示している。
国際機関やグローバル企業の経営陣はドクターやマスターが当たり前と言われて久しいものがあるが、長い目で見れば、大学院の充実こそが、わが国の国際競争力を向上させ、課題解決に向けてブレークスルーをもたらす有益な人材を育てる第一歩となるのではないだろうか。わが国は、少なくともリーダー層に関しては、低学歴国であるという自覚をはっきりと持つべきだ。
では、大学院充実のためには何をすればいいのか。答えは、はっきりしていると考える。要は、学部卒ではなく、大学院卒がわが国では尊重されるという事例を身を持って示せばそれでいいのである。
たとえば、まず国が率先して、国家公務員採用一種試験(およびそれに準ずる高等試験)の受験資格を学部卒から大学院卒に引き上げてはどうか。国が将来の幹部候補生は大学院卒を原則とすると割り切れば、一定のタイムラグをもって、間違いなく民間にも波及していくだろう。その場合、英米にならって「年齢フリー」をセットすることが望ましい。大学から大学院に直行するルートだけではなく、むしろ社会人を経て大学院に進学するルートを始めからしっかりと確保しておくことが肝要である。
一般に、改革は供給サイド(大学)からではなく、需要サイド(政府・企業)から始める方が、はるかに効果が上がる。教育も決してその例外ではあるまい。政府や企業が求める学生像が明確になれば、大学院・大学が変わり、大学が変われば高校が変わり、高校が変われば中学が変わり、といった調子で、教育改革が順次、上流に波及していくのではないだろうか。
大学はひたすら勉学に打ち込む場に
大学院の次は、大学である。大学については、ひたすら勉学に打ち込む場に変革していくことが望まれる。なぜなら、自分のアタマで考える、すなわち思考力を身につける格好の場が大学だからである。
大学の改革についても需要サイドからの働きかけが有効であると考える。前にも述べたことがあるが、たとえば、日本経団連のような団体が、卒業証明書と成績証明書をセットで持参しなければ、採用面談は一切行わないと申し合わせれば、それで済むのではないか。加えて、採用に当たっては成績証明書を徹底して重視することや、就職説明会等への入場資格も卒業生に限る(在学生には一切企業の側からは接触しない)と言明すれば、学生は安心して勉学に打ち込めるようになると思われる。
また、大学は勉学に励む(≒必要な単位を取得する)ことが主眼なので、何も一律の修業年限を定める必要はない。2年ないし4年と、一定の幅を設けておき、優秀な学生はどんどん卒業していけばいいと考える(大学院も同様であろう)。このような改革が行われれば、大学の方も成績証明書の信頼度を上げるべく、早急に採点基準を厳しくして落第させるようになり、好循環が始まるのではないか。
なお、企業と学生の接触形態としては、学生のイニシアティブによるインターン制度が最も望ましいと思われる。
成績優秀者には授業料の全額免除を
前掲のOECDの報告によると、日本は教育支出に占める家計の負担の割合が大きい国であり、とりわけ高等教育においてその傾向が顕著であるとされている。すなわち、日本は「(大学の)授業料は高いが、学生支援の仕組みが比較的整備されていない国々」のグループに位置づけられている。
これを具体的な数字で見ると、高等教育における私費負担の割合はOECDの平均が31.1%であるのに対して、わが国は66.7%と倍以上であり、しかも50.7%が家計の負担となっている。これでは貧しい家庭の子どもは大学に進学できそうもない。教育の格差が云々される所以である。
どのような社会であれ、所得階層が固定化され、いわゆる「成り上がり」の道が狭まることほど社会の閉塞感が強まることはないと考える。勉学に志す優秀な若者には、常に広い道を開けておく必要がある。
たとえば、国公立大学で、親の所得を勘案して、貧しいが優秀な学生には定員の19%程度まで(数名の例外措置では制度としての意味をなさない)授業料を全額免除すると同時に、奨学金(学生ローンを含めてもいい)で100%生活できるような仕組みを作ってはどうだろうか。そして、そのための財源としては、極論すれば、残りの90%の一般学生の授業料を値上げしてもいいと思う。大学院もまったく同様に考えていい。
そのような仕組みがあるだけで、生まれた家庭がたまたま貧しくても勉学に志す若者の胸には大きな希望の火が灯るのではないだろうか。また同時に、中学校や高等学校の教師にとっても生徒指導が格段に行いやすくなると考える。
わが国の発展のためには、親の所得階層に関わりなく子どもの意欲と能力次第で誰もが「成り上がれる」仕掛けを、社会の中にしっかりとビルトインしておく必要がある。そして、その主戦場はやはり大学や大学院をおいて他にはないだろう。
教育改革については、どちらかと言えばリーダー(エリート)教育や英語教育の是非が取り上げられることが多い。また、(わが国の)歴史を学ぶことの重要性を指摘する人も多い。いずれにも決して反対するものではないが、私はわが国の将来を見据えれば「大学院の軽視」「(青田買いによる)勉強させない大学」「費用のかかる大学・大学院」の3点セットこそが最も緊急を要する改革対象だと思えてならない。そして、それは決して教育界だけでのタスクではなく、むしろ需給サイドである企業・社会の側のタスクなのである。
今回は、大学を中心とした議論に終始してしまったきらいがあるが、最後に蛇足を一言付け加えておきたい。人間が学ぶ場所は決して大学・大学院に限られるわけではない。著名な哲学者が喝破した如く、人は「世間という大きな書物から学ぶ」のだ。