昔の学生(つまり筆者)は、大学の自治は憲法で保障されていると習った。厳密に言うと、憲法が保障するのは「学問の自由」(同23条)であって、それを担保するために「大学の自治」の保障が含まれている、と教わった。
ついでに「大学の自治」をみてみたら『世界大百科事典』では、「大学が、政治的な統制、行政的な干渉、社会的な圧力を排して、研究・教育にかかわる自律的な権限をもつこと。今日、世界的に認められている大学の自治権の内容には、(1)教員の人事に関する推薦・選任・免職等の諸権限、(2)学長・学部長等内部管理者の選任権、(3)学則・内規等内部規程の制定権、(4)教育課程・カリキュラムの編成権、(5)学位取得資格の認定権と授与権、(6)施設の管理権、(7)入学者の選定権、卒業認定権などがある」とされている。
本来、大学の管理運営において最も重要視されるのは、いかに民主的に意思決定がなされ、皆が納得する結論によって組織運営がなされるかだ。なかでも、教授会は、大学の教育・研究上の重要事項を民主的かつ自治的に議決する機関であり、私大の経営者は、教授会の意思を尊重しながら、大学経営をすべきものと言われている。
しかし実態は大違い。一般にセンセイたちは、研究が大事、次に教育、その他は「雑務」と称する。教授会などの委員会や会議はこの雑務に含まれる。教授会などは、時間がとられるので嫌がる。また、原則論を振りかざす教員がいた日には、いくら時間があっても足りない。
この点、私大の教授会は実に静か。誰もほとんど発言しない。入試の結果ですら、どこかで決定されて何名が合格とするという結果の説明だけがアナウンスされている。これで異議がなければ教授会の決定ということになり大学の自治は守られていることになる。めでたし。唯一無難な議題は、学生のための自転車置き場の設置のような案件。議論が沸騰して面白い。難しい話は短時間、身近な予算の少ない話は長時間になる。「パーキンソンの法則」のひとつに似ている。
こういう大学には"立派"な学長がおられる。ワンマン学長(総長、理事長あるいは同族の世襲)が長期にわたって、ほとんど専制政治といえる大学運営を行っている。そういう大学では、右のように、教授会は形骸化していて、事実上、何の決定権もなく、事後承認しているだけ。そのかわり、議論が紛糾することもなく、教授会は短時間で終わる。これを平和と言わずして何が平和か。
国立大学から新設の某私大に移ったある教員は、このワンマン学長の下で、満足しておられるらしい。いわく「教授会が長引かないのは良いし、自分の研究に没頭できる」とおっしゃる。19世紀に解放されたアメリカの奴隷の一部が「自由になると大変だ、奴隷時代は食べるものも着るものも住むところも考えなくてよかった」と言ったのと同じ。自分たちで、まともに大学を運営している自覚がない。国立から移ったセンセイたちは数年のことと思うから親身にならない。若手の生え抜きグループは、経営者ににらまれたら元の不安定な非常勤講師に戻らなければならないから、「行動」しない。だから教授会では消極的・無関心になるか、単にわがまま勝手を言うだけになる。
そこにワンマン学長が出てくるのは歴史の必然だろう。そして、ワンマン学長支配が、結果的には大学に一定の秩序をもたらしているのだから逆説的で面白い。ここでのキーワードは、「追従」「おべっか」「巧言令色」「面従腹背」である。つくづく大学も「人の世」だと思う。