2014年2月25日火曜日

学長のリーダーシップと教授会の機能

桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれた中教審の『ガバナンス改革論』を読む」(文部科学教育通信 No333 2014.2.10)をご紹介します。


開始半年でまとめの公表へ

大学のガバナンス改革を審議してきた中央教育審議会大学分科会組織運営部会は、去る12月24日、このことを表題とする審議まとめを公表した。5月に行われた教育再生実行会議の第三次提言「これからの大学教育等の在り方について」を受け、6月に審議を開始してわずか半年で具体的な改革方策に踏み込んだ「まとめ」の公表にこぎつけたということは、政策当局の並々ならぬ決意がそのバックにあるようだ。その決意が大学の教育・研究の活性化にどのようにつながるのか、という問題意識でこれを読んでみた。

本文46ページからなる長文のまとめである。全体を通じるトーンは「学長のリーダーシップ」の確立にあると見て間違いあるまい。学長に適任者を得て、彼らが大学を思うように動かしていくのを、中教審(つまりは政策当局)はこれからの大学経営・運営のあるべき姿と考えているのであろうか。ただし、「リーダーシップ」は役所的な「指揮・命令」でもなければ、従来の大学にありがちであった「調整」型のガバナンスでもない。大学という組織がもつ特性にある程度の配慮がうかがえる言葉であると思う。

それにしても、学長のリーダーシップの発揮は簡単なことではないだろう。さまざまな分野かつ多数の教職員を抱える総合大学を想定すると、これを一人の学長がリーダーシップを発揮して全体をまとめていくということの困難さは容易に想像できる。仮に学長の補佐体制を確立し、部局自治の拠り所とみなされる教授会の力を殺ぐのに成功したとしても、果たして学長の下に教職員の持てる力を集約することができるだろうか、またそれが望ましいことであろうか? 私も経験あることであるが、実務的な仕事をする場合、相手方の責任者が誰であるかが明確であることは、仕事の当事者としてはありがたいことである。いわば「窓口の一本化」である。しかしその窓口を一本化するのと同じ発想で学長のリーダーシップを形式的に確立しても、多様な大学内の実情を知る者としては、これははなはだ不安定なものではないかと思える。

容易でないリーダーシップ確立

その不安定な学長のリーダーシップなるものを、実質的に支える役割をこれまで教授会は担ってきたのではあるまいか。昨年秋のこの連載(No324)でも触れた通り、日常的な教授会は、学長や学外の諸勢力に対抗するパワーの源泉であると同時に、多様な行動特性をもつ教授たちに自己規律を促し、また彼らを動員して大学の諸活動を円滑に進めるような機能も果たしてきた。学校教育法でいう「重要な事項」には、教育・研究を遂行するために必須のさまざまなことがらが含まれており、ここから学長の経営権限を明確に分離することは不可能に近い。また強いて分離すればガバナンスの空洞化を招く恐れがある。

ただし、今回のまとめで提言されている教授会の機能制限すなわち、①学位授与、②学生の身分に関する審査、③教育課程の編成、④教員の教育研究業績等の審査等がその具体的審議内容であることを明確化するとともに、これらの事項についても学長が最終決定を行うことを明示するような方向で所要の法令改正を行うべきであるとしていることについては、すでに法人化以前の国立大学設置法施行規則に似たような規定があった。これについても今回と同様の議論があっての末に施行規則が改正されたものと聞いているが、当時の国立大学において、この施行規則改正が国立大学運営に特段の効果を及ぼしたという話は寡聞にして承知していない。

教特法の精神は今も重要

特段の効果を及ぼさなかったというのは、すでに当時から国立大学の教授会機能は従前に比べて弱体化しつつあったからである。私が勤務した筑波大学や広島大学においても、教授会の審議事項は施行規則改正の前後、それほど大きな変革があったという実感はなく、毎年決まった時期に審議される教務的事項を中心に淡々と議事が進行し、議論というよりは議長である部局長の説明に対して同意を与え、多少の注意点を指摘する程度のきわめて事務的なものであった。月一回の会議自体も二時間を超えることはめったになく、当時教育系の単科大学では教授会が数時間以上に及ぶといううわさを聞いて、あまりにも自大学と相違していることに驚いた記憶がある。その大きな要因は学長のリーダーシップそのものにあるのではなく、1990年代から始まる本格的な大学改革の動きの中、選択的予算配分や競争的資金の増加を前に、横並び意識の強かった国立大学が.自らの選択によって、硬直的な自治よりも予算獲得を優先することとし、教授会の機能を自己抑制したからではなかったかと、私は理解している。

もっとも当時と今との大きな違いの一つに、教育公務員特例法によって教授会が関わっていた人事に関する審議事項が、法人化によって制度上は無くなったことがある。しかしながら、教育・研究上の深い専門性に裏付けられた人材を教員として採用・昇任させるには、その妥当性を審査するのにふさわしい手続きが必要である。不利益処分の審査にも教授会が関わっていたのは、そのことが憲法上保証された学問の自由を実質的に担保するための不可欠な過程だと皆が理解していたからであろう。今回の審議まとめで、「法人化された国公立大学においては、教育公務員特例法が想定していた公権力の行使に対して、特に人事に関する大学の自治を守るための教授会という構図はなくなり、各国立大学法人・公立大学法人は、学長・学部長の選考や教員の採用等の手続について、任命権者としての学長又は理事長の下で、自由に整備できることになった」という認識・・・を示していることは、法制度論としてはともかく、大学の特性に対する配慮をいささか欠いているのではないだろうか。学長のリーダーシップにこだわるあまり、大学の特性への配慮が乏しくなるようでは本末転倒である。

審議会内にも多様な意見が

ただ、まとめ全体を読んでみると、審議会の中にもさまざまな意見があることが分かる。一方で教授会の審議事項を特定すべきであるという主張があると同時に、他方では「専門家集団として自律的な活動を行うことのできる教授会のような合議制の組織は、大学固有の組織である。重要な改革を行う場合、教授会での議論を経ることが一般的である」とし、意見調整の機能を持つ教授会を大切にすることによって、教授会の理解と協力を引き出し、また大学の構成員をやる気にしていくことの重要性も指摘している。さらには、諸外国とのガバナンスを比較した結果、各国で実質的に教員の関与が大きいとの記述が、この審議まとめにはある。「アカデミックな事項については、教員組織(教授団)に広範な権限が認められている」とのくだりを読む限り、教授会の機能制限論の影に隠れ、教員を企業の従業員のような扱いにするならば、世界の一流校の仲間入りは不可能であることが分かる。大いに自戒しなければならない。

紙数が尽きそうなので、あとは省略せざるを得ないが、今回のまとめの中で大いに評価すべきことが一つある。それは学長補佐体制の強化について、多くのスペースを割いていることであり、たとえば米国の大学で一般的な「プロボスト(総括副学長)」、高度専門職としての「リサーチアドミニストレーター」など、これまであまり議論がなかった事柄に触れていることである。これらは大学ガバナンスの改革には有効と思われる人材であり、いずれ稿を改めて論じてみたい。