2014年4月13日日曜日

教授会の何を変えるべきか、何を変えてはいけないのか

IDE(2014年4月号)に掲載された記事「教授会改革のゆくえ」をご紹介します。


本稿執筆時点で、中央教育審議会におけるガバナンスの議論もほぼまとまりを見せつつある。報道によれば、学校教育法の教授会規定改正が検討されているようだが、昭和22年の制定以来、60年の時を経て遂に改正されることになるのだろうか。

中教審の審議まとめが指摘するように、ガバナンス改革を考えるためには、制度や予算を含めて、幅広い施策を総合的に考えることが必要であり、教授会という機関のみを特別に取り上げて議論することは、論理的には正しいとは言えない。しかしながら、「学校教育法93条の改正」は、既にガバナンス改革における、ある種の政治的スローガンともなりつつある。教授会の問題が、戦後間もない時期から繰り返し議論されながら、今般、遂に法律改正が視野に入ってきたのはなぜだろうか。ここでは、主要な論点を三つだけ取り上げて考えてみたい。

第1に、近年、財界人や地域関係者などの学外者が、国立大学の経営協議会の委員や私立大学の理事などの形で、より直接的に、大学経営に関わる機会が急増したことである。とりわけ、組織再編や学長選考などの過程で生じる、大学内部の生々しい姿と実地に知る中で、学外者の目には、学部教授会自治を基盤とする大学の分権的なガバナンスは、極めて奇異なものと映ったことだろう。

第2に、「大学の自治」の観念自体の変質である。東大ポポロ事件最高裁判決は、「大学の自治」の具体的内容として、特に教員の人事の自治が認められるとした。すなわち、教員の人事は国等の公権力が決めるのではなく、大学自身が決めることとされ、教授会にその役割が委ねられたのである。以後、ポポロ事件判決は、我が国の大学政策のベースラインとして、教授会自治の思想的な拠り所となってきた。ところが国公立大学の法人化により、今や少数となった公務員型の公立大学を除いては、教員人事について、公権力と大学との直接的な対峙関係は、突如として失われることとなった。そうなると、公勧から大学の自治を守るという教授会の使命も、自ずから大きく薄らぐことになったと言える。

第3に、開かれた大学運営や情報公開が求められる中で、教授会のような閉鎖性の高い機関に対する抵抗感である。一般人にとって、教授会は、神秘のヴェールに包まれた未知なる世界である。大学という公的機関に置かれていながら、何を決めているのかわからない、あたかも中世のギルドを彷彿とさせるような、密室の権威主義的な組織ということでは、現代において不気味なものと映っても仕方がない面もある。

教授会も、時代の変化に応じて変わらざるを得ない部分は当然あるだろう。学校教育法93条の改正も、避けられないことなのかも知れない。その際、為政者に求められることは、教授会の何を変えるべきか、そして、何を変えてはいけないのかを、適格に判断することである。