2008年5月8日木曜日

国立大学法人化の検証(2)

前回に続き4年が経過した国立大学の法人化について検証したいと思います。

この日記をご覧になっている大学関係者の皆さん、特に当事者である国立大学の皆さんは、自校の現状を顧みて、法人化後の国立大学についてどのような感想をお持ちでしょうか。

残念ながら私の所属する大学の場合は、国立大学の法人化は、明治以来の大きな勇気ある、そして希望ある制度改革であると称される割には、必ずしも理想どおりにいっていないような気がしています。

実際に大学現場で働く身として感じることは、相変わらず構成員(教員も職員も)の意識の持ち方は「国の時代」そのものであったり、「教授会自治」が強力な抵抗勢力として大学経営の足かせになっていたりと、正直言って大学職員としてのモチベーションを維持することが大層大変な状況です。このような状況は、様々な伝聞によればどこの大学にも多かれ少なかれあるようです。

大学であれ、民間企業であれ、そこで働く人間にとっては、帰属意識というものがとても重要だと思いますし、悪しき民主主義、悪しき平等で固められたスピード感のない古き体質の大学では、今まさに求められている大学間競争には勝てるはずもなく、希少な構成員のやる気も次第に失せてしまって、誰のために、何のために、自分の能力をどう生かしたらいいのかということすらわからなくなってしまう、そんな最悪の状況が大学には正直申し上げて厳然として存在しています。

大学をそんな職場にしたくない、生き生きとした毎日を送りたい、将来ある若者(学生)のためにできる限りの力を尽くしたい、そんな目的意識を持った人々の気持ちを大学はなぜだめにしてしまうのでしょうか。人を育てる崇高な教育機関が、逆に人をだめにしてしまうようなことをなぜ許しているのでしょうか。大学という職場は大学に糧を得る人間でさえ未だによく理解できないところがたくさんあるのです。

今日は、前回に続き、国立大学の法人化を検証する意味で、法人化直後の2004年8月に、信州大学留学生センター教授の高石道明氏(当時)が、桜美林大学大学院国際学研究科桜美林シナジー第3号に寄稿された「大学運営における事務職員の役割」という論文をご紹介します。

「国立大学の法人化」がもたらした様々な課題、それを乗り越える手法について、示唆に富む指摘がなされているのではないかと思います。法人化後4年を経過した今でも、旧来の「国立」を乗り越えることができていない大学は少なからず存在しているのではないかと思います。大学という世界はまさに伏魔殿なのです。


はじめに

名古屋工業大学前学長柳田博明先生の新聞投稿(読売新聞2004年3月8日朝刊)を極めて強い共感をもって読んだ。柳田先生は、筆者の親しい方で、物性科学の権威であるが、昨年(2003年)暮に2期目の学長再選を阻まれた。最近、このような事例が多いが、国立大学の保守性が、法人化直前のぎりぎりのところで現れたものと思う。

柳田先生は東京大学の名誉教授だが、請われて名古屋工業大学の学長に選ばれて以来、大学を社会に開き社会と大学の関係を密接にすることに特にカを注がれた。法人化されれば、法律によって民間の人材を大学経営に参画させることになるのだが、柳田氏は、法人化の前から民間人を登用して、経営の中枢に据えた。そのような積極的な試みが、教員の反発を招いて、再選されないという結果になったのだが、新聞投稿の冒頭で、「法人化に向けた国立大学の準備作業が、制度上の整合性をどうとるかに止まっていないか。骨抜きの制度設計をしょうとしているのではないか、と私は疑いを持っている。」と書かれている。

筆者も、このたびの法人化の行く末に危惧を抱いているひとりであるが、全ての国立大学において、法人化のために行なわれている準備プロセスに見られる特徴的な態度は、法律で示された制度設計に、いかにうまく適合させることが出来るかというハウツー思考が先行していると見られるからである。すなわち、文部科学省から100点満点をもらうためだけに、多くの努力が払われているとしか思えない。法人化の根本理念に目を向けずに、制度の枠の中にいかに押し込めることが出来るか、ということに汲々としている。これは、中央にしか目を向けていない態度と言える。自分たちの大学を自分たち自身の足でしっかりと立ったものにするという視点が希薄である。

1 国立大学の病理所見

(1) 官僚主義の病理

これは国立大学だけのものではないと思う。私立大学においても長い歴史を重ねるにつれてビューロクラシーの原理が徐々に支配するようになるのではないかと思うが、国立大学はこれまで、行政組織の一部だったので、当然のこととして官僚主義が支配原理だった。このことは、単に事務組織の問題だけでなく、教員の間にも蔓延していることに注意しなければならない。

(2) 規則に基づく硬直した組織

これは事務組織に端的に現れているが、事務局長をトップとして部長、課長、係長へと連なる直線的な命令・指示系統が規則で決められているから、ひとつの係を新設する、あるいは廃止するだけのことでも、大学の評議会の議題として審議しなければ実行できない。事務組織のことであるから、事務局長や、場合によっては部長が専決で決めればいいと思われるようなことでも、教員によって構成される評議会や教授会での決定が必要ということになっている。このように硬直化した組織原理が、法人化によって変わるかどうか、それを期待してはいるが、一朝一夕には変わらないだろうと見ている。

(3) 変化への無関心

国立大学の職員は2~3年ごとに仕事を変わる。任務が変わればその任務内容を理解し、前任者がそれをどのように果たしてきたかについて、情報を得ることに努める。しかし、現代の大学が社会の大きな変化にさらされようとしていることを、自分の仕事に結び付けて考えようとしない傾向がある。大学を取り巻いて変化する環境に応じて、規則や慣例に基づいて行われてきた仕事の矛盾や問題点を自ら発見し、改善しようとする意欲や態度を持たないように見受けられる。

(4) 霞ケ関への依存体質

変化への無関心は、霞ヶ関への依存体質に基づいている。特に課長以上の職員は、文部科学大臣によって任命されるから、どうしても霞ヶ関に忠誠であろうとする傾向にある。筆者がかつて勤めていた山口大学では、廣中平祐学長は、筆者や部長達を「君ら配属将校は…」とよく言っていたものである。筆者は、むしろ国の直轄領である国立大学に置かれた「代官」ではないかと言ったことがあるが、学長がそのような目で幹部職員を見ているということは、過去の幹部達がそういう態度で学長に接していたからに違いない。

(5) その場しのぎの改善

問題の根本を見つめて改善する態度に欠ける。その場を繕うだけの改善に止まることが多い。

(6) 意思決定の遅延

このことは、柳田先生が新聞に書かれた中にあるように、大学では民主主義的な手続きが重視されるので、社会的な要請に応えて大学の制度を改革しようとして、教員達と議論に議論を重ねて、ようやく結論に達して改革を実現した時には、既に改革の必要性は薄れてしまっているということがある。これも国立大学に蔓延している官僚主義の大きな弊害のひとつである。

(7) 内なる論理が支配

身内の論理が最優先されるということである。大学には教員も職員も大から小まで、様々の段階の組織に属している。公式のものもあれば非公式の組織もある。それらの組織を防衛するだけのための論理が常に優先される。柳田氏はこの点については、「教授会メンバーとの葛藤は、学長権限の縮小と教授会権限の維持の要求をいかに拒否するかにかかっていた。要求は、メンバーの民意を尊重せよという学内民主主義を論拠に置いていた。…国立大学の何がいけなかったのか。まず、大学人は大学を自分たちのものだと考えている。」と書いておられる。

(8) 市場の原理に無頓着

市場の原理に全く関係ないところで大学の教育が行われていることに、全く気づいていない。例えば国立大学の英語教育は惨憺たるものであると思っているが、送り出す学生の英語能力の質を保証するためには、社会的に確立された能力試験を大いに利用すべきである。しかしそのような大学はきわめて少ない。

我々は、送り出す学生の質について、100パーセントの自信を持つことが出来るだろうか。信州大学の場合には、明確な根拠は無いが、かなりの割合で不良品を出しているのではないかと思っている。物を生産して販売する企業では、2~3割もの不良品を出していたら、たちまち倒産してしまう。このように卒業生として送り出す学生の「品質」に注意を払わないということは、高等教育のマーケットが変わってきていることに対する認識が欠けているということである。サービス産業として質の高いサービスを提供できる大学にすることが出来るかどうか、これが我々の最大の関心事であるべきである。その意味では、JRなどが良いモデルを提供してくれている。

(9) 生活習慣病(糖尿病、高血圧、動脈硬化、高脂血症)

上記のそれぞれの病気が4大生活習慣病のどれに該当するかは別として、これらの病気を治すためには対症療法ではだめであることは良く知られていることである。国立大学においても根本的な体質改善なくしては、病気から逃れることはできない。

2 改善の処方箋

(1) サービスの質の向上にこそ共同して貢献する教員と職員

顧客としての学生の満足度を高めることを最優先としなければならない。顧客の満足度はサービスの質によって決まる。学生に対するサービスは、入学前、入学直後、在学中、卒業後のそれぞれの段階で考えられなければならない。入学前のサービスということは、あまりなされていないと思うが、例えば入学が決まった学生に対して、新しい勉学と生活環境に対する期待を高め、不安を取り除くような情報提供を行うなどの働きかけがあっていいと思う。アメリカの大学に学んだことだが、各地にある同窓会組織の協力を得て、OB、OGが入学予定者に接触して、見知らぬ土地で生活するためのアドバイスを与えることなどは有効であると思う。

入学直後の時期も非常に大切である。多くの大学で1年次教育が重要視されているのは、もちろんユニバーサル段階に達している高等教育の現代的な特徴であるが、強い動機付けを行い勉学のインセンティブを与えることは、大学生活における学生の満足度を高めることにつながる。

在学期間を通じて、教育の質を保証することが先ず何よりも大切である。それに加えて、勉学環境(キャンパス・アメニティー)の面でも学生の満足度を高められるような配慮、を常に心がけなければならない。最後の段階では、進路指導や就職指導が重要である。

また、卒業後のサービスにも心がけるべきである。周年記念の寄付依頼の時だけ大学が卒業生に接触するというのでは駄目である。毎年定期的に大学から情報誌が送られ、大学の最新の様子が知らされることによって、母校への愛着心が維持される。その結果、卒業生が自分の子供も母校へやろうと思ってくれるということになれば、素晴らしいことである。

このような一連の各段階において、高品質のサービスを確保するということにおいてこそ、教員と職員が心をひとつにして貢献すべきである。そのような共通の目標に向かって共に仕事をすることが、サービスの相手方の満足度を保証するのみならず、教員と職員の自らの仕事に対する満足度も高めることにつながる。このようなことが、体質改善につながるのである。

法人化後の国立大学は、すぐには変わらないと思うが、厳しい風に向かえば、徐々に変化するであろうと思っている。アゲインストの風に胸を開き勇敢に立ち向かうことが出来れば、希望はある。身を硬くして縮こまってしまっては発展は無い。

(2) 内向けの仕事は最小限に、外向きの仕事を最大限に

例えば、内部組織をどのように変えていくかというようなことは、サービスの質の向上に役立つことならば結構であるが、多くは無駄な労力を費やしているのである。貴重な時間の多くが内なる事柄に費やされている現状を改め、常にサービスの対象者に(学生だけではなく、地域住民や企業、行政、各種団体なども含めて)視線を向けた仕事を最優先として最大限の努力を払うこと、これがまた体質改善に資することになるのである。

(3) すべての職員に責任と権限を与える

信州大学の事務局長のときには、大学教職員専用のホームページに局長専用のサイトを作ってもらって、ほぼ毎週、事務局長としての仕事の目標や仕事上の思い、時々の大学経営上の課題に対する考えなどを職員に伝えていた。あるとき新採用職員から反応が届いたのだが、その職員が訴えるには、「自分が所属する課が何を理想として仕事をする所かということについて、課長からも係長からも一度も話されたことがない。従って自分が何のために現在の仕事を与えられているのか理解できない。」というのだった。官僚主義的な対応をするなら、規則によって仕事は決まっているのだから、それに従っていればよいと言えばいいようなものだが、意欲のある若い職員にはそのようなことでは駄目である。その職員はたまたま、附属病院の医事課という、事務職員としては患者に最も近い所で仕事をする立場にあったのだが、そのような職場では、医師の医療行為とあいまって看護サービスと共に患者の満足度を高めるための、高い理想を掲げることが出来るはずであるし、そうでなければいけない。課長は率先してサービス高度化の理想を示すべきである。そういう理想の下で自分がどのような役割を与えられているかについて、職員に理解させなければならない。

このような意見を受けて、職員、特に部下を抱えているような職員は、それぞれに仕事上の目的・目標(ポリシーステートメント)を明確に示すように求めた。そのようなものを作るときには、作成者の個性が現れるようなものであってほしいと思う。法律や規則など既存の制度に則ったものであってはならない。それらを越えた所に理想というものがあるのではないか。すべての職員の意欲を引き出し、職場の満足感を得られるようにすることに幹部職員は常に意を用いることが大切である。とりわけ、若いカを引き出し、励まし、活躍の場を与えることが肝要である。

(4) 匿名性からの脱却

全ての職員に求められることでは必ずしもないと思うが、少なくとも職場の中心となるような職員は、あの人らしいと評価されるような個性のあらわれる仕事をして欲しいと思う。これは「組織に埋没しないこと」とも言える。

(5) 官僚主義に基づく重厚な組織から軽い組織へ

官僚主義は、どうしても重い組織を作る傾向にある。そこから脱却できるかどうか、重要な課題であると思う。法人化後の事務組織においては、事務局長や部長というポストは廃止することを提案している。学長の下に任務を分担する複数の理事が置かれることになるので、その分担ごとに理事を補佐する職員を配置する。場合によっては複数の課を置いても良い。理事の職務分担も、柔軟性が保障されるようにしておくことが必要である。同時に事務組織も臨機応変に動かせるようにしておかねばならない。例えば大きなプロジェクトを進めなければならないようなときには、そこに一時的に職員を配置できなければならない。「硬い組織から柔らかい組織へ」とも言えよう。

(6) 経営の責任と権限の共有

法人化後の国立大学の理事に就任するのは、外部から登用される人材以外は大学の教員であるが、事務職員も理事として経営の責任を担えるような道を作っておくことが必要である。同時に、これまでは教員が任命されている大学の内部組織(例えば留学生センターや情報処理センターなど実務的な組織)のトップにも、事務職員が就任できるようにしておくべきである。豊富な実務経験を有し、幹部職員としての資質を認められるような職員に、センター長などへの道を開いておくことは強いインセンティブになる。そもそも、教授としての本来の仕事に加えて、併任でやっているようなセンター長などは選挙で選ばれるので、必ずしも最適任者が選ばれるとは限らない。

これとはいささか異なる問題ではあるが、法人化までは霞ヶ関によって任命される職員によって占められていたポストに、大学プロパーの職員を充当してゆくことも人事政策上望ましいことであると考える。

(7) 情報の共有

現代のように激しく変化する環境の中で大学の経営に携わる我々は、常に敏感なアンテナを働かせていなければならない。とは言え、大きな大学では情報の共有にしばしば困難を感じる。経営の中枢で決定されたことが、末端にも伝わるようにすることは容易ではない。教授集団に加わってそのことを痛感している。評議会決定をホームページに公開することなどは、大学経営をオープンにする上で直ちに実行するべきことであるが、いまだに限られた事柄だけが文書で流れてくるに止まっている。このような状態(いわば動脈硬化)を改善することは緊急の課題である。

(8) 多様なステイクホールイダーヘの説明責任

私立大学でも同じであるが、現代の大学には、その教育や研究あるいは社会貢献、国際貢献に関して、利害や関心を有する多くの人々や組織が存在する。学生やその親達が関心を持つのは当然だが、企業や行政機関、一般の市民、あるいは外国の企業や組織も利害や関心を持つ。納税者が税金を使っている大学の運営に関心を持つことも当然のことである。「公共財」としての大学ということを強調したいが、その意味でも常にアカウンタブルな大学経営であることが求められている。

3 大学の固有文化の共有

それぞれの大学には、歴史と伝統があり、そこには伝説や神話と言えるようなものが存在する場合がある。過去に作られた伝説や神話のようなものは、大学の構成員の連帯感の醸成あるいは統合のシンボルとして強い作用を持つ。従って、過去のものだけでなく、新しい伝説や神話を作り上げることも、強い大学の文化を形成することにつながると思う。サクセス・ストーリーを作り上げることもそのひとつであろう。すぐれた研究成果をあげて世界的な賞を得る研究者を育てること、TLOが研究成果をうまく実用化して多大な利益を研究者と大学にもたらすことなどである。大学のヒーローを育てることとも言えるであろう。すなわち、自分の大学を誇りに思えるようなシンボルを共有すること、これが仕事の違いを超越して、教員と職員が協力するカの源になるのではないかと思う。