2012年2月29日水曜日

いつまで続く模索と試行錯誤

天野郁夫さんが書かれた「国立大学の法人化-現状と課題-」(名古屋高等教育研究第6号)をご紹介します。

この論考は、国立大学が法人化して2年目に入った2006年(6年前)に書かれたものですが、この中で指摘された多くの課題が、今なお未解決のまま残存しています。

該当すると思われる部分を抜粋します。関係者は、改めて制度面、運用面について検証及び改善に向けた努力を深める必要がありそうです。


4 法人間の差異と格差-人的な資源

学長は法人化後、経営協議会と教育研究評議会から同数選ばれる委員からなる、学長選考会議によって選任されることになった。いいかえれば最高経営者としての学長は、「同輩集団」の直接選挙によらず、経営協議会委員という学外者を加えた学長選考会議が、大学の内外を問わず最適任者を選任できる仕組みになったのである。

しかし現状では学長は、学長選考会議で選任されるとは言っても、ほとんどの場合、選考手続きの一環として行われる教職員の意向投票を参考に、しかも学内から選任されるケースが圧倒的に多い。また、理事等の役員についても、一部学外から財務・人事等の専門家を任用する例がないわけではないが、一般的には、学内の教授陣のなかから任期付きで選任される場合がほとんどである。つまり現状では、国立大学法人の経営管理層の供給基盤は、それぞれの大学の現有する人的資源の量と質によって、大きく規定されていることになる。

法人化によって、文部科学省の直接的な「統制と庇護」から解き放された、一般の事務職員の場合にも、法人職員としての意識変革だけでなく、新しい経営体制に対応した職務の遂行能力の形成や向上が、重要な課題のひとつとなっている。しかし現状では、法人化からまだ2年ということもあるだろうが、どの大学法人とも、研修等を含む職員の人事政策の本格的な検討や策定を進めているようにはみえない。新しい任用試験制度の導入や、大学独自の方針による職員の新規採用、外部者の中途採用、地方自治体・企業等との交流人事も、一部の大学でようやく始まったばかりである。とくに、小規模の大学法人の場合、限られた数の職員を対象に、新しい試みを導入する余地はきわめて小さい。

大学の側からはしばしば厳しく批判されてきたことだが、これまでは、文部科学省の主導下に行われてきた本省と各大学、大学と大学の間の事務系管理職や一般職員の人事交流が、そうした人的資源の大学間格差を是正する上で、大きな役割を果たしてきた。しかし人事権が各大学の学長の手に移ったいまでは、人事交流や研修を含む人材育成に、大学間の協力体制を組み、共同で努力しないかぎり、職員という人的資源の大学間格差は固定化され、さらには拡大するおそれすらある。とりわけ、小規模大学の場合、他大学との安定的で計画的な人事交流なしには、人事の停滞により組織の活力が失われる危険性が大きい。国立大学協会は任用試験制度の実施主体となり、また各種の研修セミナーを立ち上げるなど、一定の努力をしているし、ブロック単位で大学法人間の人事交流を進める動きもある。そうした協力や共同事業の輪をさらに広げていくことが重要だが、それと同時に、法人間の連携や再編の問題も、そうした視点からあらためて検討される必要があるだろう。

一般の事務職だけでなく、理事等の経営管理層を含めて、法人化された大学の経営や運営に専門的な力量を持った、また流動性に富んだ人材をどのように育成していくのか。それは個別の大学のみでは対処し得ない、重要な課題として残されている。


5 意思決定の構造変化

わが国の大学の管理運営は、さきにも指摘したように一世紀余の長期にわたって、構成員、とくに教員間での情報の共有と合意を前提に行われてきた。学長も、部局長も、教授会構成員によって選任される同輩集団の代表者として、調整者的な役割を期待され、実際に果たしてきた。これに対して法人化後は、学長が強いリーダーシップを発揮できるよう、選任制度が変わり、また学長の任命する役員を中心とした強力な執行体制の構築がはかられることになった。それはトップダウン型の大学経営をという法人化のねらいからすれば、当然のことといってよい。

しかし、その新しい、トップダウン型の大学経営の理念を実現するためにも、実際の教育研究活動の担い手である各部局との関係が、きわめ重要であることに変わりはない。ほとんどの大学法人が、法的には設置義務のない部局長会議を置いているのは、そうした現実的な判断によるものだろう。ところが部局長が代表するその部局では、法人化後も構成員全員の参加による教授会自治が一般的であり、部局の長も構成員の直接選挙にもとづいて選任されている。つまり、部局長は大学執行部の一員である以前に、各部局の同輩集団の代表なのである。

法人のトップダウン型の経営は実質的に、こうしたボトムアップ型の意志決定の方式を残した各部局の、具体的にはその代表者である部局長の理解と合意なしには成り立たない。部局長会議や全学委員会は全学的な、意志決定とは言わぬまでも合意の形成と、それに必要な情報の伝達と共有の場として、不可欠のものと見なされているのである。

こうした現実の大学法人の運営の在り方は、学長や理事を始めとする大学法人の執行部が、既に見たように、もっぱら自大学の教職員(主として教員という同輩集団)の中から選任されている現実とも、深くかかわっている。学長は別として、理事等の教員出身の執行部スタッフのほとんどは、任期(通常2年)が終われば再び出身の部局に戻り、教育研究活動に専念する。それは法人化後も、国立大学の執行部が実質的に、経営や財務の専門家ではなく、一時的に教育研究活動を離れた、いわば素人の教員によって構成されていることを意味している。学長のリーダーシップや執行部の機能が強化されたとはいえ、国立大学は法人化後も依然として、同輩集団による大学経営の現実から大きく抜け出してはいないのである。

もちろんそれは過渡的な状況であり、やがては学外者の登用を含めて、大学経営の専門家の育成が進み、経営層と教員層とが職能的に分離していくことは十分考えられるし、またそうあらねばならないだろう。しかしそれには、長年にわたってボトムアップ型の大学運営に慣れてきた教員集団の、抜本的な意識変革が必要とされる。それは困難な、長い時間と努力を必要とする道程といわねばなるまい。

情報の共有を前提にしてきた、ボトムアップ型の運営システムになれてきた、部局の一般教員からすれば、執行部の権限強化によるトップダウン型の大学経営は、情報の流れの変化や遮断を意味する。役員会と部局教授会の間で、いわば中間管理職的な立場に置かれることになった部局長の位置は、きわめて微妙である。どちらを向いて情報を発信し、その職責を果たしていくのか、上意下達と下意上達の狭間で、部局長の地位や役割が確定していくまでには、さらに多くの時間が必要とされるだろう。

地位や役割の確定の問題は、職員の場合にも同様である。人事権を文部科学省が握っていた法人化前の時代には、たとえば経理、財務、企画、労務など、自立的な大学経営に欠かせぬ高い専門性を持った職員を育成する努力は、政府によっても大学によっても、ほとんどなされてこなかった。もちろん、職員の間に専門的な分化がまったく見られないとするのは、言い過ぎだろう。職員の大学内での職歴には、経理系・教務系・総務系・施設系といった、大まかな系統があることが見て取れる。しかし、大学事務職員の世界は、上級の管理的な職務になるほど、スペシャリストよりもジェネラリストの世界である。そして現実に、「行政と法規」による支配の下にあった、つまり自立的な経営努力の必要とされなかった時代の国立大学では、そうしたスペシャリスト養成のための積極的な努力は不要視されていたのである。

それだけではない。教授会自治中心の大学運営のもとで、職員は教員に対してつねに従属的・補助的な位置に置かれ、自発的な活動や企画立案的な仕事を、ほとんど期待されてこなかった。法人化後は多くの大学で、職員の出身者が(といっても、事務局長のポストにあった文部科学省の移動官職がほとんどだが)、理事として役員会に加わり、また全学委員会にも職員が正規の委員として参加するようになった。新設された企画室・評価室・監査室等のスタッフ的な役割をはたす組織では、教員と職員の双方が室員として共同で業務を担っている場合も少なくない。それは、法人化がもたらした大きな変化であり、一歩の前進であることは間違いない。

ただ、それが職員の能力開発や地位向上にどこまで役立つのかは、微妙な問題である。なぜなら、依然として大学経営の主導権を握っているのは、教員集団のなかから(多くは一時期に限って)選任された役員や室長などだからである。教学と経営のあいまいな分化は、私立大学にも見られるわが国大学の主要な特徴のひとつだが、国立大学法人の場合にも、職員の能力開発と専門性の向上のための方策をあわせてとらない限り、法人化は、教育研究を本来の職務とする教員の、実務スタッフ化をもたらすだけに終わるかも知れない。職員の専門性や企画立案能力が低いまま放置すれば、具体的な大学経営の過程で教員の果たす役割が肥大せざるを得ず、教育研究活動の活性化にマイナスに働くだけでなく、それによって再び職員の能力開発が妨げられるという、負の循環を結果することになりかねないのである。

国立大学の経営は、法人化によって、文部科学省の統制と教授会自治の双方からの、大幅な自由を手に入れるはずであった。しかし現実には、依然として「国立」大学法人であるが故の、文部科学省の間接化したとはいえ強い規制が働く一方で、一世紀余にわたる教授会自治の伝統とそれに由来する、意志決定にかかわるさまざまな慣行を無視することができないという意味で、経営体としての自立性を十分に活かすことができない状況におかれている。

大学が「知の共同体」であることからする、ボトムアップ型の伝統的な教員中心の運営体制から、大学の「知の経営体」への転換とともに避けがたいものになった、学長を中心とする執行部によるトップダウン型の経営体制に、どう転換させていくのか。「大学」と「法人」との、いいかえれば「知の共同体」と「知の経営体」との間の、しばしば葛藤と矛盾を伴う関係をどう調整し、「大学法人」にふさわしい経営の在り方を確立していくのか。新しい大学経営の在り方を構築していく上で不可欠の前提である、役員をはじめとする管理職や一般の職員の職務遂行能力や専門性を、どう開発し高めていくのか。教育研究活動の活性化のためにも必要と思われる、伝統的な教員依存の運営体制からの脱皮、教学と経営の分離や専門的な職能の分化を、どう進めていくのか。発足から2年目をむかえた国立大学法人が直面しているのは、そうした困難な課題である。


6 大学内部の資源配分

法人化によって、文部科学省によるこうした、いわばボトムアップ型の予算配分方式が、大きく変わったことは既に見たとおりである。細分化された基準単価による予算の「積み上げ」方式は廃止され、大学は、運営に必要と文部科学省がみなした経費のうちから、授業料・診療収入などの自己収入を差し引いた額を、「運営費交付金」として受け取ることになった。また、この運営費交付金に自己収入をあわせた資金について、それを大学内でどのように配分し、どのような目的で使用するかについて、各大学法人は大幅な自由を認められることになった。また、これまで文部科学省が大学毎、正確に言えば講座や学科、さらには学部などの部局毎に定め、保障してきた教職員の定数制も廃止されたため、教職員の数、さらには給与水準も、大学が自由に決められることになった。言いかえれば法人化とともに、大学の執行部は、経営上の最も重要な資源である人員と資金の配分について、トップダウン型の決定権限を手に入れたのでる。

問題はこの場合にもそれと、従来からのボトムアップ型の資源配分方式との関係である。法人化以前の国立大学では、講座・学科・学部という教員の組織形態に対応して、一定数の教員と一定額の予算が「行政と法規」によって保証され、それが教授会自治の最重要の基盤となってきた。一定数の人員と一定額の予算は、それぞれの講座や部局にとっていわば長い間の既得権益である。学長を中心とした新しい執行部が、権限を行使してその既得権益を侵し、奪うということになれば、教授会自治が根底から揺らぐことになりかねない。各部局や一般の教員が、新しい予算配分方式の導入に強い抵抗感を持ったとしても不思議はないだろう。実際に法人化2年目の今の時点で、積極的に新しい権限を行使し、人員と資金の大幅な再配分に着手した大学は、ごく少ない数にとどまっている。
教育研究活動の活性化という、法人化本来の目標を損なうことなく、新しいトップダウン型の予算配分方式をどのように導入し、定着をはかっていくのか。大学本部が長期的な経営戦略の遂行に必要な予算を、どのように捻出し確保していくのか。各部局や個々の教員に対する資金配分をどのような基準にもとづき、どのような方法で行うのか。その新しい基準や方法について、部局や教員の理解と合意をどのように取り付けていくのか。国立大学法人にとって、それは今後数年間の、経営政策上の最大の課題といってよいだろう。


7 文部科学省との新しい関係

とくに大学法人の内部では、トップダウン型の大学経営を迫られ、目指さなければならない学長・役員会を中心とした執行部と、ボトムアップ型の大学運営に慣れ親しんできた各部局の教授会やそれを構成する教員との間に、今後もさまざまな利害の対立や葛藤が予想される。しかし、法人化により、少なくとも政府の強力な官僚制的な支配から解き放された国立大学が、自立的な経営に必要な、大幅な自由を手に入れたことは事実である。対立や軋轢は改革の過程で避けがたいものであり、そうした葛藤を経験することを通して、国立大学は着実に変革をとげ、学長の選任や執行部の編成に見られるような、同輩集団を基盤とした「知の共同体」としての性格を維持しつつ、「知の経営体」としての道を探りあてて行かねばならない。

その試行錯誤の過程で、大学内部での対立や葛藤の問題もさることながら、さらに重要なもうひとつの問題は、国立大学法人と政府・文部科学省との間の、これも葛藤をはらんだ関係である。
国立大学法人の自己収入獲得面での経営努力は、「国立」であることによる強い制約のもとに置かれている。そうしたなかで「法人」としての経営努力は、収入の増よりは、より大きく支出の減に向けられざるをえない。しかも国立大学の場合、平均して経常費のほぼ7割を教職員の人件費が占めており、なかにはそれが85%を超える大学もある。経費の節減は、人件費の問題抜きには、考えることができないというのが現状である。

学生-教員比で見た国立大学の教育条件が、私立大学に比べて著しく恵まれていることはよく知られている。しかし学生数の増が厳しく規制されているなかで人件費の削減を図ろうとすれば、教職員数、とくに教員数の削減を図る他はない。実際に国立大学法人の多くは、転・退職した教職員のポストを不補充にする等の方法で、人件費の削減に努力しはじめている。こうした努力をすればするほど、その教育研究活動に及ぼすマイナスの影響が、もともと人的資源の総量に乏しい小規模大学により厳しく及んでいくことは、あらためて言うまでもないだろう。

こうした法人化の現状は、運営費交付金の減額と引き替えに、競争的な研究費という形での外部資金、とくに公的な資金の増額が図られれば図られるほど、大学間の資金面での格差が拡大し、基礎的な教育研究活動、とりわけ教育活動の水準の相対的な低下を招き、とくに中小規模の国立大学法人の経営基盤を弱体化させる危険性が増していくことを示唆している。
大学が自らの経営改善努力の一環として行う自己点検・評価と違って、政府が国立大学法人に対して行う「外部評価」としての法人評価委員会による評価は、間接的であるとはいえ、強い統制的な機能を持っていることを忘れてはならない。大学の多様な活動の何を、どのような方法と指標によって評価するのか。それを、運営費交付金の交付額の決定に象徴される国立大学政策とどのように、どこまで関連付けていくのか。さらには、属性も個性も異なる87の大学法人を、どこまで共通の指標によって評価し、どこからそれぞれの独自性に応じた差異的な評価をしていくのか。それによって評価は、教育研究活動や社会貢献活動を活性化させ、各大学のさらなる個性化や発展に大きく資するものにも、逆に政府による間接的な統制の手段として、せっかく認められた経営上の自由を強く制約し、教育研究活動に枠をはめるものにもなる可能性や危険性を持っている。

繰り返しになるが、問われているのは、国立大学法人についてはなによりも、認められた経営上の自由を、厳しい財政状況のもとでどう行使し、教育研究の活性化と水準の向上に努めていくのか、また政府・文部省については、「市場と競争」の秩序の中に投げ入れた国立大学法人とのとの新しい関係をどう構築していくのか、である。模索と試行錯誤の過程は、ようやく始まったばかりなのである。