震災の影響もあってか、多くの人が、人間の”絆”の大切さを強く意識するようになってきたような気がします。しかし、一方では、相変わらず「孤立死」といった悲劇が連日紙面を賑わせています。
社会全体で弱者を救うためには、一人一人が慈愛の心を持つ、持つように心がけることが肝要かと。言葉だけでなく行動で。
天声人語(2012年2月24日付)
一つ屋根の下、という表現がある。そこにあるべきは一家だんらんであり、つましいけれど幸せな日々だろう。しかしこの現実を前に、ありきたりの言葉は意味を失う。
東京都立川市のマンションで、45歳の女性と4歳の息子らしき遺体が見つかった。床に倒れた母親の死因はくも膜下出血。知的障害がある坊やは一人では食事ができず、手つかずの弁当はあるも胃は空だった。2人ぐらしのお母さんを突然失い、空腹のうちに息絶えたらしい。
一家の亡きがらが、時を経て自宅で発見される事例が相次いでいる。さいたま市では、60代の夫婦と30代の息子。家賃と水道代が滞り、電気とガスも止められていた。近所づきあいも、生活保護の申請もなかったという。所持金は1円玉が数枚だった。
札幌市では姉(42)と障害のある妹(40)、釧路市では妻(72)と認知症の夫(84)。いずれも、病気や高齢などのハンディを抱えた「弱者の共倒れ」である。なんとか救えなかったか。
衰弱の末の死は緩やかに訪れるはずで、複数が同時に事切れたとは考えにくい。一つ屋根の下、残された人の落胆や焦りを思う。札幌で姉に先立たれた妹さんは、携帯電話のキーを何度も押していた。
こうした悲劇には、公共料金の滞納、たまる郵便物などの前兆がある。微弱なSOSが、プライバシーの壁を越えて行政に届く策を巡らせば、かなりの孤立死は救えよう。懸命に生きようとした人の終章を、天井や壁だけが見届ける酷。きずな社会への道は険しい。