2012年7月31日火曜日

教学マネジメントの現状と課題(1)

去る5月29日に開催された「中央教育審議会大学分科会(第105回)・大学教育部会(第16回)合同会議」の議事録が文部科学省のホームページに掲載されています。

議題は「中長期的な大学教育の在り方について」ですが、当日は、学士課程教育の質的転換を進めるためには、全学的な教学マネジメントの確立が不可欠との観点から、数人の有識者から国内外の事例等についてのプレゼンが行われています。

抜粋してご紹介します。まず、第一回目の今回は、上山隆大上智大学教授です。資料と照らし合わせながらお読みいただくと理解が深まるのではないかと思います。

資料「研究大学と自助・自立の精神」(アカデミック・アントレプレナーシップ)


最初に申し上げておくと、私は高等教育の研究者でもなければ、教育学の研究者でもありません。ですから、むしろ、ここに御列席の御専門の方々から御意見をいただければ幸いです。

私自身は、自分の研究テーマとして、ここ数年間、シリコンバレーのことを調べております。なぜアメリカの中でも極めて特異な、もちろん世界的にも特異なのですが、あの地域が生まれたのかという疑問について、特にそれを研究大学の立場からずっと調べてまいりました。

したがって、スタンフォード、UCバークレー、UCサンフランシスコといった三つの大きな研究大学の中のことをこの数年間ずっと調べております。当初は、それほど大学そのものに関心はなかったのですが、なぜあそこから、あのような新しいタイプの知識や技術が生まれるのかということを考えると、大学というものの中で何か起こっているのかということをどうしても考えざるを得なくなって、したがって、大学に残っている様々なデータや資料をずっと読みあさってきたというのが、ここ数年間の私の経歴です。

各学長の文書から始まって、非常にたくさんの、もう何百箱になるようなドキュメントが残されております。それらを全部見たとは言いませんが、かなりは見たと言っていいと思います。そういう過程の中で考えたことを、安西分科会長に御紹介いただいた本にまとめてみました。あれは、ある意味では私のシリコンバレー研究の副産物として生まれてきた本です。

その後、様々な方から、「もう少し大学について発言してほしい」というお話があり、こういう機会をいただくことが多くなりました。したがって、私の話は、教育学の専門家としての話ではないということを御容赦ください。

そのような研究の過程で、日本のアカデミーはどうあるべきかという問題を、アメリカの研究大学の研究を通してどうしても考えざるを得なくなりました。制度としての大学がどうあるべきかという問題は非常に難しいですが、日本にとって、あるいはアメリカとか諸外国との関係の中で、研究大学の再生は本当に不可欠だということを強く思うようになったわけです。

翻って、日本の大学は、なぜ大学に資金を投入する必要があるのか。納税者の論理が何よりも先行して、それに対して大学が常に受け身で、なぜ必要かということを説明することができないでおります。さらには、産業界からも大学は研究と教育について何をしているのだ、という批判が大学に対してなされているのが現状です。私自身はそのことに非常に大きな違和感を持っております。

もちろん、そのような批判にも、ある面では正しい面もあります。またこのまま行けば、10年後に日本の研究大学は本当に大変なことになるだろうという危機感を持っております。

一方で、そのような状況に置かれていることについては、大学人の側にも大きな責任があったのだろうと私は考えております。それは国立大学をはじめとして、国の予算でずっと守られて、大学人自身がこれについて果たしてどれくらい考えていたのだろうかということです。

一方、アメリカの研究大学は、先ほどのガバナンスという言葉もありますが、極めて強固な戦略と意思をもって大学運営を行い、かつグローバルな環境の中で激しい競争を勝ち抜こうとしております。

それと比較して日本の大学は果たしてどうなのだろうかと思うわけです。何よりも、大学に公的な資金がもっと投入されなければならないと私は思っていますが、それを説明する、説得力のある言葉を大学人自身が現在のところ持っていないことに大きな問題点があるでしょう。あるいは、あまりに凝り固まった学問観が根付いていて、それが柔軟な大学運営を蝕んでいる。今、総合科学技術会議などで出ておりますが、そこでの議論にもそのような古い大学観を聞くことがあります。例えば、大学は基礎研究をやるところだ、基礎的な人類普遍の知識をやるところだという、ある種の基礎研究神話、そして、大学の重要な役割は人材を輩出すればいいというものです。

ところが、基礎研究という言葉は、戦後のある時期にアメリカで極めて政治的な意図をもってつくられた言葉であり、それは何も人類普遍の研究という意味だけではなくて、この言葉を作ることで、アメリカの政府からの公的資金を導入するためのフレームワークだったことは明らかです。

したがって、基礎研究とか応用研究といった分類にとらわれることない大学の知の在り方を考え直す時期に来ていると思います。そして、基礎や応用といった垣根を軽やかに超えていくようなスター研究者が大学から出てこないといけないし、そういう人材こそが大学がなぜ社会の中で必要なのかということを説得できる言葉を持つ。そのような投資を今、国家の中でしなければいけないと考えているわけです。

1980年以降、アメリカの中で様々な産学連携の政策がとられました。バイ・ドール法、技術移転法、こういったものを日本の政府は積極的に導入してきました。しかしこの政策の問題点は、それらがどのような背景の中から生まれたのかという意識もそれほどなく、例えば大学の研究に対して特許を取れというプレッシャーだけを大学に押し付けたものだったということです。この臨場感のない政策が、大学運営の精神として正しかったのかどうか、精神の理解として正しかったのかということをずっと考えてきました。

そのような小手先の変革ではなく、日本の大学は、特に研究大学は真の意味でパワーエリートにならないといけない。特にアメリカを中心とした世界のグローバルな競争の中で勝ち抜いていく大学に変身しなければいけない。それを国としてサポートしなければいけないと強く思っております。

大学という制度について言えば、日本では、この制度が非常に困難な危機的な状況に陥っていますが、一方で、グローバルに目を向けてみると、実は大学というシステムというか、制度そのものは非常に大きな爛熟期にあると思います。

なぜならば、まさにグローバル社会の中において、大学でつくられる知識を身につけた新しいタイプの人間がますます必要とされている。そういう需要が高まっているわけです。そのような人間をつくるために、あるいは、そのような知識をつくるために世界中の大学がグローバルな中で競争し合っている。そこに日本の研究大学は入っていかなければいけないということであろうと思います。それをどのような形で国としてサポートしていけるか、そのことをもう一度、社会全体の中で考え直さねばならないのではないでしょうか。

さらに、大学という制度自体が、今のグローバリゼーションの中で大きく変容する時期が来ているとも考えます。大学というシステムがアメリカとかヨーロッパとか日本を超えて、むしろ、グローバルの中で大きく変質しつつあると考えているわけです。

大学という制度はヨーロッパの地中海地方の沿岸で生まれ発達したものです。ボローニャ大学がその発祥でしょう。それは地中海の経済圏が生み出した知のシステムだったと思います。それが、北西ヨーロッパに移り、パリ大学などを生み出し、やがて産業革命の開始とともに、富の変動が起こり、イギリスの大学が大きな役割をするようになりました。オックスフォード、ケンブリッジの隆盛です。さらには、ドイツの産業革命期に、ベルリン大学などのフンボルト型大学を生み出して行きました。それは、まさに地中海から大西洋経済圏への変化に対応しています。後者の経済圏の隆盛の中で、ハーバードなどのアメリカ西海岸へと移り、スタンフォード、カルテック、UCLAなどの新しい大学を生み出しました。そのような人類史の富の変化とともに、大学というシステムも大きく変わってきたわけです。ですからアメリカの大学といっても、単なるアメリカ型と呼ぶことができないほど、多様な形で変貌を遂げてきています。そして今や東アジアの中で新しい大学が生まれつつある。そのような変化する世界の大学と日本の大学は競争していかなければいけない。日本の研究大学は果たしてそれに応えていけるか。あるいは、それに応えるようなサポートを国としてやっていると考えざるを得ません。

研究対象にしているスタンフォード大学や、あるいは西海岸の大学のケースをずっと調べてきて常に思うのは、これらの大学が非常に長期的な、極めて強い戦略と明確なガバナンス力をもって、大学の運営を行っているということです。特にOffice of President、大学の総長を中心とした部局が極めて長期的な戦略をもって大学運営に当たっているということに驚かされました。

アメリカの大学に行った人は必ず思うはずです。なぜこんなに研究条件のいいところで、教育条件のいいところで彼らは研究できるのか。そして、我々日本の研究者は、そういう大学や研究者とどうやって競争していけばいいのか。しかし、そのような環境をつくり出す大学の戦略についてはほとんど考えられてきませんでした。それこそが極めて重要だと思っております。

大学経営ということで何よりも強調したいのは、特にアメリカの大学はそうですが、大学という組織の経営は極めて難しいということです。ここにMulti-purposeと書きましたが、一般的に企業の方が大学に対してなされる批判を聞いて、この点を理解されておられないことに違和感を持ってきました。企業は利益を最大化する組織ですが、大学というのは、様々なステークホルダーがいて、様々な目的があって、その様々な目的ごとに対応していかなければいけない。その点の理解が足りないように思います。アメリカの大学の学長の文書をずっと呼んできて感じたことは、真剣にやるならばこんな難しい仕事はないというということです。大学には頭がいい人がどんどん集まってくる。ただ、よく言うのですが、しばしばこうした人たちは社会性がない、そういう人たちがどんどん大学の学長に対して要求を突きつけてくる。しかし、彼らこそが実は大学の中で新しいものをつくり出していく人間でもある。

そのような人々をなだめすかしながら、かつ彼らを満足させることができるような資金を獲得しながら、そして社会的な使命に訴えながら、アメリカでいえば教会のような宗教界にも常に目を配り、スポーツにも目を配り、いろいろな社会の方面に向けてメッセージを発しながら経営をやっていかなければいけない。だから、極めて難しい仕事なのです。

80年代にスタンフォードの学長だったドナルド・ケネディは、食料、医薬品関係の巨大な権限を持っているアメリカのFDAの長官を長く務めました。それほどの人間だからこそ、大学のような難しい組織を動かせる。そのような人間はどこでもやっていけるということだと思います。エリート大学の中枢にいた人物は、政府の中に入っても十分やっていける。それくらい難しい仕事を、実は大学のヘッドがやっているということを社会が認識した上で、これをどのようにサポートしていくかということを考えないといけないでしょう。

例えばスタンフォードのみならず多くのエリート大学の学長は、10年ぐらい必ずやる、10年やらない学長は大体失敗した学長なのです。成功した学長は、10年間の間に大きな変革をやっている。その際に、かなりの長期的な展望をあらかじめ整えている。例えば国民所得がどのぐらい伸びていくか、18歳人口がどれくらい伸びていくか、インフレーションがどれくらい起こっていくか、そのような指標のエクストリーム、ミディアム、モデストというようなシナリオを考えて、これから10年間何をやっていくべきかということを、ずっとレポートで出しているわけです。そのような長期的視点を常に確立しながら大学経営を行うOffice of Presidentの力をもっと強めなければいけないと常に思っております。

そのような長期的視座のなかから、新しいタイプの大学が生成していくこともあるでしょう。そして、それは社会の中のある種の巨大な知識の実験場として立ち上がって来るでしょう。したがって、大学の総長、あるいは学長は、大学という知識をつくり出す拠点のマネジメントに長けた人間でなければならない。ですから、大学の運営とは非常に難しい仕事なのです。

このような大学の性質をきちんと理解することが、大学の経営へのサポートに欠かせないと思うのです。産学連携の政策についても、例えば特許戦略、あるいは、ここに書いていますが、特許収入によって財務的な問題をもっときちんとしろというプレッシャーが大学側にかかりました。特許を取って、それを民間に供与して、利益を得るべきだという考え方です。確かにアメリカでは、80年代にそういうことが起こりました。しかし、例をここに少し挙げてみたのですが、1969年に最初にスタンフォードでOTL(Office of Technology Licensing)ができます。その後、確かにアメリカの大学は特許をたくさん取りました。5番のところに書いていますように、例えばバイオテクノロジーは典型的な例ですが、たくさんの大学が自分のところの研究者によって特許を取っていったわけです。

しかしながら、その特許を取るということが利益を得るためのものである、あるいは産学連携というのが、企業と関わることによって産業界から利益を吸収することであるというような考え方から彼等は特許を取ったのでしょうか。それだけだと考えては、アカデミアを滅ぼしてしまうと思います。

私は、産学連携をもっと進めないといけないと思いますが、それは金銭的な目的が中心なのではなく、社会との間でネットワークをつくり、どのような意識が大学に求められているとかという情報を手に入れる手段であり、あるいは大学の中で次々と生まれている新しい知識がどのような意味があるかということを、大学人だけではなかなかできない、わからない、それを発見するためのネットワークとして産学連携というのはとても重要なのです。

例えばスタンフォードでは毎年30億円ぐらい特許の収入があるでしょうか。日本は国立大学全部を入れても7億円ぐらいですが、この30億のお金がスタンフォード大学の全部の予算の中でどれくらいの位置を占めていますか。実際にはその金銭的意味は、一般に考えられているほど大きくはないです。金銭的意味は大きくないけれど、重要な役割をしています。

それは、それを通して大学のOffice of Presidentは様々な情報を手に入れることができるからです。そして、経営の能力の中にその情報の意味を発揮していくことができる、その背景がとても重要だということを我々は理解しなければいけないのです。

例えばアメリカの中でもエリート大学である私立大学と州立大学を少し考えてみましょうか。州立大学というとUCバークレーがあります。UCバークレーも非常に強い特許ポリシーを持っています。しかし、これは余りにも強過ぎて、つまり、特許を取って、それで収入を得ようとすることが余りにも前面に出過ぎたために、むしろ研究者の手足を縛っています。

スタンフォードも、独自の特許のガイドラインはあります。私は、アメリカの400ぐらいの大学と医療機関の利益相反のガイドラインを調べましたが、非常に厳しいところから緩いところまで様々です。スタンフォードは比較的緩やかです。それはなぜかというと、特許を取ったから、弁護士がそれに関わって、そこから収入を得ようなんて考えていないのです。おそらく、そこからどのような情報を得るか、そして、大学の中でそれをどのように生かすかということが重要だと彼らは考えていて、それこそ知識のマネジメントだと思うのです。

日本における産学連携政策の問題点、あるいは日本型のバイ・ドール法を運用していくときの誤った精神は、大学の財政的な自助努力を求めすぎるあまり、アメリカでの産学連携の最も重要な目的を忘れていることではないかと思います。

一方で、次のスライドの7に書いていますが、アメリカの大学は非常にアグレッシブです。特にエリート私立大学は、80年代から30年ぐらいの間に大学の基金を極めて大きく伸ばしてきました。これは、徐々に知られてきましたが、ハーバードで1965年のときに、日本円に直して500億円ぐらいの基金だったでしょうか。それがリーマンショックの前には3兆円をはるかに超える金額に上っているわけです。これを激しくやったのは、ハーバードとスタンフォードとイェールです。最も成功した例はイェールでしょうか。

彼らは80年代になって、なぜそういうことをやったのか。多くは寄附金が多いでしょうが、もちろん企業からの特許収入もあったでしょう。しかし、彼らは、大学の外にマネジメントカンパニーという株式組織をつくって、そこに大学の資産を全部移して、グローバルなデリバリティブを通した投資をしていくわけです。そして大成功するわけです。

しかし、これも果たして単に金銭的目的から行ったのでしょうか。私はそうは思いません。もちろんお金を得るためにやったと思いますが、それは大学の私的な利益を求めてというよりは、グローバルな競争を目前に控えていて、それに対応するためのフリーハンドを得るその資金が欲しかったのだと思います。グローバルな大学の競争が目の前に来ていることをはっきり認識していた。そして、何よりも、それゆえにアメリカの大学は一歩先んじたということです。何のために資金を手に入れないといけないか。優秀な研究者と学生を引きつけなければいけないからです。

ハーバードでしたら、どの分野においても世界のトップの研究者がここにいるという状態をつくらなければいけない。あるいは優秀な学生を奨学金を出して呼び込まなければいけない。そのための自由になるフリーハンドを手に入れようとしたと私は解釈しています。それがゆえにアメリカの大学は強い、それがゆえに我々がアメリカの大学に行ったときに、なぜこんなに研究環境がいいのだろうかと驚くのだと思っています。

翻って、日本の大学はどうでしょう。ここに、東京大学と早稲田大学の資金環境を挙げておきましたが、東京大学はもちろん国庫からの運営費交付金に頼っていますし、早稲田大学は授業料の納付金に頼っている。つまり、バランスが極めて悪いのです。

一方、ハーバードとバークレーの例を挙げてみましたが、バークレーは州立大学ですので、州政府の予算が相当入っています。それでも日本の大学と比べて、少なくともファイナンスの部分のポートフォリオはもっと健全である。ハーバードに至っては、もっとバランスが取れています。そして、ある程度自由に大学運営を考えることができる状況が生まれていると考えないといけない。そのような研究大学と我々はどのように闘っていくのか。その点を、国家戦略として考えていただきたいというのが常に思っていることなのです。

その下に、ベンチャーファンド出資者の変遷ということを少し挙げておきました。1973年に法律が改定されて、大学の基金をリスクマネーに投資することが可能になりました。それ以来、80年代からベンチャーキャピタルに大学の資金が相当程度入るようになったということを示しているデータです。その一番大きな部分は、実はカリフォルニアに集中しています。この地がベンチャーキャピタルの集中して伸びたところだからです。そしてその出資元のデータを見てください。一番上のところは年金の基金がベンチャーファンドに入っていますが、赤いラインは実はEndowment、大学の基金からの投入です。大学は、ベンチャーファンドにも、リミテッドパートナーシップをとって資金をどんどん入れるようになっていることを示しています。

スタンフォードのバジェットを少し見てください。そこに2010年から11年にかけてのスタンフォードの収入を入れておきました。やはりうまくバランスがとれていると同時に、学生からの納付金の率が実に20%を切っています。これは、極めて強調しておかなければならないのですが、私立大学の研究費の少なくとも70%~80%は公的資金だということです。それがなければ、アメリカの研究大学の環境などできません。

したがって、公的資金を入れるのは当然ですが、そこの中にInvestment Incomeというのがあります。これは、自らの力で獲得した基金からの納付金の割合です。イェールは、基金の投資によって非常に高いときで40%ぐらいの利益を上げております。ですから、1兆円ぐらいの基金の中で、40%の利益を上げる年というのは、本当に大きな基金なのです。その一部が大学の一般経費の中に算入されている。

この基金の増加は、アメリカの大学に完全な優位性をもたらしています。今のスタンフォードの学長のヘネシーから先日、卒業生宛てにメールが来て、ここ何年間かの寄附のキャンペーンがやっと成功裏に終わった。目標額の43億ドルを集めることができたと書いてありました。すなわち、今、80円で換算しても3,000億円を超えるでしょうか。彼らは必ず、これくらいの規模のお金を集めて、そして、フリーハンドで大学を運営していこうとするわけです。

翻って、果たして民間の資金がどれくらい日本の研究大学の中に入ってきたでしょうか。これは、しばしば企業の方々に訴えたいところだと思います。ここでは時間がないからお話しできませんが、アメリカのフォード、ロックフェラー、カーネギー、こういったところの巨大な財団は、非常に多くの資金を大学、高等研究に投入して、そして、大学を次の時代に生きていけるような組織へと変えていこうとしています。これは、産業界の使命だと私自身は思っているのです。

そのような大学の中でよく出てくるのは、研究大学は、こうやってお金を稼げていく、ガバナンスはこうやっている。では、大学の研究者の中でも、金銭的目的に直結していない分野がある、このような方式を続けて行くと、お金にならない分野は疲弊してしまう、という議論は必ず出てくるのですが、そうでしょうか。ここにGeneral Fundsというのが25%であります。すなわち寄附とか授業料とかオーバーヘッド、間接経費です。こういうものを集めた形の金額を学生の奨学金や、容易には資金を手に入れることができないような人文科学系のところへときちんと還流している。そして、トータルとしてアカデミアというものの知識の世界をきちんとマネージしようとしているのがアメリカの研究大学だと考えないといけない。そういう大学と我々はどのように関わっていくのかということであります。

スライドの13のところは、スタンフォード大学がベンチャーキャピタルに、どれほどリミテッドパートナーシップの関係を持って、利益を上げてきているかという図であります。ピークで日本円にして8,000億円ぐらいのバジェットになっていたでしょうか。

実は、これ以外にも様々なデータがあるのですが、本日はお時間がありませんし、そんなに詳しくお話しすることはできませんが、最後に提言として、まず、我々が考えなければならないのは、大学のマネジメントは、我々大学人が一般的に考えるよりもはるかに難しく、はるかに重要な仕事であるということを私たちは考えないといけない。そして、ここから大学というものの形をつくっていくという意思を持たないといけない。そして、それは強い戦略を持たないといけない。その戦略性に関して、我々は国としてもサポートしなければいけないということを訴えたい。

しかし、大学が自らの力でマネジメントをやって、グローバルな中で自分の地位を上げていこうとすることは、これはある意味では私的な利益の追求でもあります。その活動と公的資金との関係は慎重に考えなければならない。自分の大学の評価を高めて行くために優秀な研究者を呼び込む。その私的な利益のために、直接的に公的資金を入れるのはどうかとは思うのです。しかし、その努力を自らの金銭的力で行い、そのマネジメントが成功した場合に、「あなたのところはうまくいきましたね」といって、その後の研究活動に大きな公的資金を入れる。これは当然だと思います。そのような公共的な役割と私的な役割をきちんと考えた上のマネジメントをしないといけないでしょう。

そしてまた、こういうことを申し上げると教授会自治はどうなるのだという話が必ず出ます。教授会自治の自由というのは守らなければいけないと思いますが、大学のマネジメントの中で教授会が一体どのようなビジョンを持って、ここ何十年かの間に、経済学部ならどういう人材を立てて、そして生きていくのかというビジョンと、大学全体のOffice of Presidentがつくり出すビジョンとの間で綱引きをやることによって、大学は前に進んでいきます。

したがって、大学のOffice of Presidentが人事権に関してもある程度介入せざるを得ないと思います。アメリカの大学の例で言えば、例えば学部は人事を三種ぐらいに分けて考え、この人間は絶対に必要だという人間と、まあまあ必要だという人間と、大学のOffice of Presidentが反対したら、もうあきらめてもいいという人間の三つぐらいの分類をします。トップのカテゴリーの人事であれば、何があっても抵抗して、その人間をとろうとします。常にそのような駆け引きと綱引きをやっているわけです。それこそが大学のマネジメントの在り方なのではないでしょうか。

そういうことを申し上げた上で、産学連携も含めて、大学と社会、あるいはマーケット、市場との関係は常にプラスとマイナスがあることを付け加えたいと思います。しかし、大学はもっとマーケットに開いて、市場に開いて、そこから様々な情報と意見を吸い上げながら、社会とのネットワークをつくっていく必要があり、そして、私自身の言葉で言うと、大学はパトロネッジを多様な形で広げていかなければいけないということです。公的資金導入は当然ですが、それ以外にも、私的な部門との関係をつくりながら、よりポートフォリオの高い大学運営をやっていただきたいと思っております。そのような大学を、国としても戦略的にサポートしていくという姿勢が重要なのではないかと常日ごろ考えているところです。

このような話をさせていただいた上で、おそらく専門の先生方の中から、より細かい貴重なお話が伺えると思っておりますので、このあたりでやめさせていただきます。御静聴、どうもありがとうございました。


【質疑応答】

(林委員)

上山教授にですが、研究大学とGeneral Fundsの話がありました。スタンフォードでしょうか。大学は、研究大学であり、同時に教育大学でもあると思うのですが、そうするとGeneral Fundsを持っているか持っていないか、文系も大事にするし、教育のほうにも大学としてきちんとしたサポートをしていくというような評価になると思うのですが、そういう意味でGeneral Fundsというものが一つの評価のポイントになっているのかどうかということが一つです。

それから、研究大学だけの話がありましたが、これは先生、意外かもしれませんが、教育大学、あるいは機能別という話が数回出てきましたが、お聞きしていると博士課程を持っている研究大学、あるいは準研究、あるいは教育学士課程の大学、教養大学というような表現が出てきたと思うのですが、研究大学は非常にわかりやすいのですが、そうでない大学のランキング、そこでは何が評価されて、そこが何で学生が集めるのか、研究大学の場合は、いい研究をやれば、お金も入ってきているし、いい先生が集まっています。それを見て学生が集まるという話がありましたから、そうでないところはなかなか難しいのかな、どういう評価になっているかというのがもう一つです。

それから、これは返事がなくてもいいのですが、ここの大学教育部会で高等教育の質的な転換を図ろうとするということを進めていて、そのためのマネジメント、ガバナンスの強化ということが一つのポイントになっているのですが、欧米の大学は学生が勉強するに決まっていますし、ファカルティは組織的にサポートするような形で動いていて、それを前提にして今のガバナンスとマネジメントがあるのですが、日本の大学、今はどう勉強させようかという話、それをマネジメント、あるいはガバナンスのほうに何とかやれないかというような考え方を持っていますが、それについて何か御意見があればお聞きしたいという気がいたします。

(上山教授)

まず最初に、General Fundsというものの役割ですが、これは非常に大きい役割をしています。これは、別に教育ということだけに関わらず多方面に用いることのできる資金で、その使途のかなりの部分が学長、あるいはプロボストが非常に大きな権限を持って、自由に使える資金として教育、さらには研究の面でも使われています。その原資の大きな部分を占めている間接経費は、どうしても理科系に限定されてしまうわけです。しかしながら、日本の大学と違うと思うのは、やはりアカデミアとしてのコミュニティが強く意識されていて、外部資金を取れない分野にもこのGeneral Fundsを通して資金が回って行く形をとっています。

例えば特許による収入などが典型的にそうです。カリフォルニア大学の例でも、特許収入は社会科学系の人たち、特に博士課程の大学院生の人たちに研究費として回していこうというような努力がなされています。そういう意味では、General Fundsというのは、大学のガバナンスとか学長のマネジメントに関してとても重要な役割をしていると考えるべきでしょう。

それから、既に小林委員もおっしゃいましたが、アメリカの大学は非常に多様であることが大きな特徴です。このことは教育学者の中ではほとんど定説になっていると思うのですが、多様性こそがアメリカの大学の強みである。実は国家が生まれる前から、1636年にアメリカ最初の大学、ハーバードが生まれていて、それから実に多くの大学が設立され、それらが互いに競争することで進化して来たという特徴を持っています。いまのスタンダードで言えば大学というよりはカレッジのレベルに過ぎないものが多いですが、それらが互いに競争し合うことで、それぞれの特色を生かした大学へ進化して来たのです。したがって、その過程の中で、我々の今のカテゴリーで言う研究大学というものと、研究というものにそれほど特化していないリベラルアーツ型の大学、例えば今の国務長官が学部時代を過ごしたウェルズリーなどがそうですが、非常にいい大学ですが、別に研究大学ではない。でも、とてもいい学部教育を行って、そこを卒業した学生が、ハーバードとかスタンフォードとかのエリート研究大学の大学院へと進学したりするのです。その意味で、この中央教育審議会でも議論になったと思いますが、大学の役割分担というのがはっきり生まれている。

それから、大学院というシステムそのものがアメリカの中でつくられたもので、アメリカはもともと研究ということにそれほど力がない国でしたから、大学院を設立することでヨーロッパに匹敵する研究体制をつくろうとしてきました。特にドイツの大学から研究中心のプログラムを輸入しようとした時に、ドイツに追いつくためには別の組織をつくって、大学院というものをつくろうとしたわけです。そのあたりからやっと研究という方向に向かっていって、したがって、いわばベースがもともとは研究ではなかったということです。もともとは教育をベースにしたカレッジのシステムがアメリカの中には非常に強くあって、しかし、その中に新たなグローバルの競争の中で、特に当時でいえば19世紀後半のドイツですが、科学技術にたけたような大学に打ち勝っていくためには大学院という新たなシステムをつくることで成功したということです。

そういう意味で、大学院型大学と教養型大学というのは明確に区別されていると考えたほうがいいと思います。それは日本でも、やはりもっと明確になったほうがいいと思っています。

(樫谷委員)

上山教授にお聞きしたいのですが、総長、学長の任期が10年ぐらいだと、こうおっしゃったのですが、結果的に10年になるのか、初めから10年なのか、それがまず一つです。あと、学部長は学長が任命するということなのですが、その任期は大体どれぐらいなのか、それから、できましたら秦教授と大場准教授に、イギリスとかフランスでは実質的な任期はどの程度なのか、形式的な任期はどの程度なのか、もしわかれば教えていただければ幸いです。

(上山教授)

おそらく小林委員がもっと具体的な数字はお持ちでしょうが、自分のリサーチから知っているところで言うと、過去、スタンフォードのケースですが、実は年数がばらばらです。非常に短い、4年ぐらいで終わってしまう人もいれば、12年、13年と続ける人もいます。最近で言うと、今の学長の前の学長は、おそらく10年やるだろうなと思ったら、8年ぐらいで終わってしまいました。そういう場合には、内部の議論を見ていると必ず何か問題が起こっています。例えばいまの例で言うと、彼は、スタンフォード大学の医学部とUCサンフランシスコという大学の医学部をマージして、合併して、大きな医学部をサンフランシスコの中につくろうとして、本当にたくさんの資金を投入しました。その計画が結局は失敗に終わってしまった。そのことへの非常に強い批判が学内からまた理事会の側からも起こりました。罷免の形をとったとは思えないですが、おそらくそれで辞めたのだろうと思います。

ですから、学長の権限と任期を見ますと、10年やらない人はだいたい何か起こっています。例えば、その前のロナルド・ケネディという学長の場合も最後の数年間はスキャンダルに見舞われました。先ほど小林委員もおっしゃいましたが、理事会がかなりの力を持って罷免といいますか、やめてもらうということになるのだと思います。

ですから、雑駁なイメージとしては10年を念頭に置いているのだろうなという印象はあります。学部長に関してはよくわからないのですし、またイギリスやフランスについては、具体的な期間は小林委員や他の先生方が数字をお持ちだと思いますので、お聞きになってください。

(秦教授)

イギリスに関しましては、それぞれの大学が独自に学則で決めているのですが、現在、調べましたところによりますと、ヨーク大学が大体7年間、そしてオックスフォード大学は5年間が一応リミットで、さらに2年間更新することができますので、総合は7年になります。また、バース大学とかブリストル大学ですとオープンエンデッドという形で表現されていましたが、やりたいだけやってくださいという形になります。

ただ、理事会が進退の判断をいたしますので、もし大学にとって有益な人材ではないということがわかりましたら、文書をもって学長に突きつけますが、それになるまでに学長自らが辞職するという形が普通で、また、そのような形になるとスキャンダルになるということで、そのような形をとっているようです。

また、学部長に関しましては、4年をめどにしまして、さらに4年、つまり、トータル8年ぐらいが限度となっております。

(大場准教授)

フランスの学長は4年が任期ですが、1回に限って更新が可能です。ですから、1期終わって、その次の選挙に出ることはできます。

(小林委員)

手短にお答えします。アメリカの大学の学長は非常に長くやっているというのは、30年以上やっているような学長もおりますし、これは、いろいろなアメリカの大学史にも書かれております。その一つの理由は、学長は対外的に大学を代表する大学の顔でありますから、そう簡単にかわってしまうのは非常にまずいという判断もあります。

それから、学部長につきましては、大学については執行部の任期の範囲でやるわけですが、学部長自体が学外から呼ばれることもありますので、様々な大学に移って学部長を続けていく、あるいはプロボストに上がっていくというようなことで、大学経営を覚えていくということになるわけです。