吉武博通さん(筑波大学大学研究センター長・ビジネスサイエンス系教授)が書かれた「大学院改革を通して知識と研究プロセスの社会的意義を発信する」(リクルート カレッジマネジメント186/May-Jun.2014)をご紹介します。
大学における教育と研究の関係をどう理解するか
教育と研究は車の両輪ともいうべき大学に課せられた使命であり、学校教育法も大学の目的を定めた第83条において、そのことを明記している。
その一方で、教育と研究の関係をどのように理解し、資源配分や日々の活動において両者のバランスをどうとるかは極めて難しい問題である。教育の質の保証やグローバル人材の育成など、大学教育への期待・要求が高度化するなか、これまで以上に教育に力を入れる必要があるのは明らかであるが、研究大学としてのプレゼンスを国内外に示すために、本音の部分では研究により力を入れたいと考えている大学もあるだろう。
個々の教員レベルで考えてみても、教育能力の向上や授業の改善などが求められる一方で、採用や昇任に際しては、依然として論文の数やその水準など研究業績を中心に審査が行われるという現実がある。また、これまで学内予算で措置してきた研究費を競争的資金にシフトさせる大学も増えてきた。申請書作成、採択後の運用・管理、報告書作成などの業務が付加されることになる。
大学における教育研究において、自由と時間はかけがえのないインフラであるが、同時にぬるま湯的体質を根付かせる要因ともなり得る。
このような根源的ともいえる問題にどう答えればよいのだろうか。大学運営や教育研究に携わる者が、それぞれの立場で考え続け、対話を重ね、解を見出していくしかない。
そのための材料提供を目的として、本稿では、まず研究に焦点を当て、大学の研究力の現状をデータで確認した後、教育研究の拠点としての大学院の現状と課題について論じる。最後に、大学が創出する知識と研究プロセスが社会にとってどのような意味を持つのかについて考察し、大学のこれからを考える視点を示したい。
日本は論文生産の量と質の両面でポジションが低下
2013年8月に文部科学省科学技術・学術政策研究所が公表した「科学技術指標2013」によると、研究開発活動のアウトプットとして計測可能な科学論文について、世界の論文量は一貫して増加傾向にあるなかで、日本は1990─92年から2000─02年にかけて、論文数は増加(46,644→66,637)、シェア(7.6%→8.5%)・順位(3位→2位)共にアップしたものの、2010─12年は論文数が減少(64,579)し、シェアも5.4%、順位も3位にダウンするという結果になっている(各数値は3カ年の平均)。
上記3つの期間について、被引用回数が各年各分野で上位10%に入る論文数のシェアと順位の推移をみると、5.9%(3位)、6,1%(4位)、4.0%(6位)と、直近10年で下げていることがわかる。上位1%に入る論文数についても、5.2%(4位)、6.3%(5位)、5.9%(10位)と、直近10年で特に順位を大きく下げている。
その背景には中国が量と質の両面で急速に存在感を増していることがあり、韓国の増加も著しい。また、Top10%論文とTop1%論文でドイツがシェアを高めていることも注目される。
前記指標の公表に先立つ2013年4月に同研究所がまとめた「日本の大学における研究力の現状と課題」では、論文生産において日本は量と質共にポジションが低下しており、論文数の伸びが主要国に比べて低いと述べたうえで、質の高い論文数における英・独と日本の差は国際共著論文によること、日本の論文の約7割は大学から生まれていること、日本の大学部門の研究開発費の伸びは主要国に比べ小さいこと、大学の論文数のうち、科研費が関与している論文は増加しているが、科研費が関与していない論文は減少していることなどの指摘を行っている。
大学別に見た場合、日本は分野を問わず論文数上位大学が旧帝大や東工大などに固定されており、競争的資金獲得の上位大学についても固定されている可能性があるとの見方も示されている。
また、海外への派遣研究者総数は2008年以降14万人水準で推移しているものの、中長期派遣研究者数は2000年度以降大きく減少していること、大学教員における若手(25~39歳)比率の減少が続いているとの指摘もなされている。
大学教員の研究時間割合は大幅に減少している
2000年版科学技術白書は、第1部「21世紀を迎えるに当たって」において、「産業や国民の生活など社会のあらゆる活動が知識を基盤として急速に展開されるようになり、21世紀、社会は『知識基盤社会』へ移行していくことになると考えられる」と述べている。その後、白書や答申の中に「知識基盤社会」がたびたび登場することになるが、皮肉なことに登場頻度に反比例する形で、大学の研究力を巡り、懸念すべき状況が進行している。
その背景の一つに、大学部門の研究開発費の伸びが、米欧やアジアの主要国に比べて押さえられてきたことが挙げられるが、国や各大学のレベルで改革の名の下に様々な施策が展開されるなか、教員が研究時間を確保しにくくなっていることも大きく影響しているものと思われる。
前出の「日本の大学における研究力の現状と課題」でも、大学教員の職務時間に占める研究時間の割合が2002年の47.5%から2008年には36.1%に大幅に減少していることが示されている。それに対して、教育に費やす時間の割合は23.0%から28.5%に増加している。教員の活動が教育に向かうことは望ましいことではあるが、競争的資金の獲得や成果報告、種々の計画と評価などを含め、研究時間の確保が難しくなりつつあるとの声も根強い。研究力の低下に歯止めをかけるためにも、正味の研究活動や教育活動に時間を費やすことのできる環境を整えることが急務である。
前述の論文生産に関する指標には、人文・社会科学分野などが含まれないため、研究全体の状況を正確に表すものではないが、人文科学の将来に危機感を抱く研究者は多い。また、社会科学分野においても、世界的なジャーナルへの投稿や国際共著論文が少ないとの指摘もなされていることは付記しておきたい。
研究成果を論文数や引用回数などの数値で評価し、ランク付けすることへの批判も根強いが、これらの指標を手掛かりの一つとして、研究活動を点検・評価することの意義はあると思われる。
供給サイドの論理がもたらした大学院の危機
次に、知識基盤社会をリードする教育研究拠点としての役割が期待されている大学院の現状について見てみたい。
2013年度の学校基本調査によると、国公私立合計782大学のうちの8割にあたる624校が大学院を設置しており、うち博士課程の設置は435校に及ぶ。私立大学に限れば全606校の半数にあたる303校が博士課程を設置している。
一方、博士課程の入学者数は2003年の18,232人をピークにほぼ一貫して減少を続け、2013年は15,491人、修士課程は2010年の82,310人をピークに減少に転じ、2013年は73,353人となっている。人文・社会科学の博士課程に限ってみると、2003年の3,348人が2013年には2,319人と10年間で3割減少しており、事態がより深刻であることがわかる。
質的な側面でも憂慮すべき状況が進行しており、「優秀な学生が大学院に来なくなっている」と考える教員は約7割にのぼるとの調査結果が示されている(東京大学大学経営・政策研究センター「大学教育の現状と将来-全国大学教員調査-」 2010年6月)。優秀な人材が大学院に集まらなければ、次代の大学の教育研究を担う教員の養成にも重大な影響を及ぼすことになる。
この背景には、大学院修了者の厳しい進路状況がある。2013年度の学校基本調査によると、博士後期課程修了者で正規の職に就いた者は約50%、正規でない職を含めても約65%にとどまる。これらは全分野の合計であり、人文・社会科学はより厳しい状況に置かれている。また、修士課程でみると、進学者を除く修了者のうち正規の職に就いた者の比率は、理工農の合計が約90%であるのに対して、社会科学は約60%、人文科学は約40%にとどまっている。
大学院は入口と出口の両面でまさに危機ともいうべき状況にあるといえる。1990年代初頭に示された大学院進学者の倍増目標、大学院重点化に基づく各大学での新設・拡大、2000年代における専門職大学院の設置など、需要サイドの量と質を十分に見極めることなく、供給サイドの論理で急速に規模を拡大させたことは反省されなければならない。
また、大学院における人材養成目的が、従来の研究者養成から高度専門職業人、グローバルに活躍する博士などに拡大されるなかで、天野郁夫東京大学名誉教授が指摘する「修士課程と博士課程、一般の大学院と専門職大学院、さらに言えば学部教育と大学院教育との複雑で混乱した関係」(IDE現代の高等教育2011年7月号)を放置してきたことも、今日の状況をもたらした大きな要因と考えられる。
早急に着手すべきは、大学ごとに研究科・専攻別の志願者数と修了後の進路、入学者の質や教育研究の状況などの実態を正確に把握することである。そのうえで、人材養成目的を明確にし、教育の実質化や質の保証の観点から、それを達成できる体制やシステムに組み替えていく必要がある。それが困難な場合は、廃止・縮小も検討すべきであろう。
知識には閉ざされた思考空間を広げる力がある
再び、大学院修了者の進路問題に戻り、我が国において博士や人文・社会科学系修士の就職機会が限られる理由について考えてみたい。
仕事をするうえで必要な能力を、知識、スキル、態度の3要素に分けた場合、日本の多くの企業はスキルや態度を重視して採用や人事考課を行ってきたと考えられる。必ずしも知識の軽視を意味するものではなく、求められる知識は担当業務により、あるいは環境や課題の変化とともに変わることを前提に、必要な知識をその都度吸収しようとする態度やそれらを活用するスキルこそが大事、との考えに基づくものと思われる。
また、長期雇用を前提にした職場において、普遍性のある知識やスキルよりも、その業界や会社に固有の知識や関係特殊的技能が重視されてきたという面もある。この点については、グローバル化や雇用の流動化の流れの中で変容を迫られることになるだろうが、大企業や官公庁を中心に依然として根強い面もある。
それでは、普遍性のある高度な専門知識は企業や官公庁などの実務に必要ないのであろうか。
日本企業は優れた技術や生産現場を持ちながらも、横並び的な経営や売り方しかできず、時代を画すようなイノベーションが起こりにくいといわれているのも、限られた知識と同質的なメンバーの中で閉じた議論が繰り返されることに一因があるように思われる。この点は企業のみならず行政などあらゆる機関に共通する課題である。
知識は結果を保証するものではない。しかしながら、真理、概念、フレームワークなどを知ることで、思考や議論をより高い次元で展開させることはできる。企業に限らず多くの実務の現場では、既知の枠組みのなかで、時間に追われながら最適解を求める活動が繰り返されている。その閉ざされた思考空間を一気に広げる力が知識にはある。社会科学系や工学系などの分野に限ったことではない。自然科学、歴史研究、比較文化研究をはじめ様々な研究者との対話やその著書等を通じて、思いもよらぬ発想や見方に気づかされることもある。
研究プロセスを通して培った力を社会に活かす
知識のみならず、研究プロセスも実務の世界と無縁ではない。学術研究には何よりもオリジナリティが求められるが、そのためにはテーマを絞り込み、鋭く深く掘り進めなければならない。テーマ選定にあたっては、周辺領域を含めた幅広い知識と俯瞰的な視野、如何なる方法で実証し得るかの見通しが必要である。
そのうえで、先行研究に丹念にあたり、仮説を構築し、実証のための調査・実験を行い、結果を考察し、学術的な意義、社会的な意義、残された課題を明らかにする。これらの成果の公表手段が論文であり、理系の場合、英語によるものが多く、国際学会の場などで厳しい質問を浴びせられることもある。
指導教員はいるが、自身の名前で論文発表する以上、責任は自ら負わなければならない。一般の職場ならば上司の指揮の下で仕事をする年代でも、研究に携わる大学院生はこのような厳しい環境に身を置くことになる。そのなかで研究をやり遂げるためには、知的好奇心、情熱、根気、自己管理能力、誠実さなどが必要となってくる。特に誠実さは研究成果への揺るぎない信頼のために不可欠な要素である。
研究プロセスは、実務の世界における問題解決や企画立案のプロセスにも通じるものがある。研究においては手続き上の厳格さが絶対の要件であり、実務の世界では限られた時間内で答えを出すことが優先される。このような決定的な違いはあるが、テーマを定め、問題意識と目的を明らかにし、事実を正しく把握し、答えを見つけるというプロセス、そしてそれを筋道立てて説明する能力など、研究経験が活きる余地は大きい。
知の創出と継承を謳い文句に終わらせてはいけない
そうであるにも拘わらず、大学院修了者の進路が限られるのは、大学で教授研究されている知識や研究プロセスの意義を社会が実感を持って認識していないからである。企業や官公庁をはじめとする社会の側の責任もあるが、伝える努力を怠ってきた大学の責任はより大きいと言わざるを得ない。
それ以上に問題なのは、修了者自身が、学位取得者に相応しい豊富な知識、深い洞察力、旺盛な探究心、確かな思考力や説明能力、そして何よりも考え抜き、やり遂げたという強い自信を社会に示すことができているかという点である。
大学院の教育研究に関わる者はそのことを真摯に問い直し、不十分ならば大学院における教育研究自体のあり方を根本的に見直さなければならない。
現在の大学院には、研究者に加え、高度専門職業人、教育能力と研究能力を兼ね備えた大学教員など、多様な人材養成機能が期待されている。その機能をどう発揮するかで、我が国の研究の将来、国や企業の競争力、次代の高等教育の質、そして社会全体の知の豊かさが大きく左右されることになる。
波多野・稲垣(1973)は、人間は生まれつき旺盛な知的好奇心を持ち、好奇心と向上心は結びついているとしたうえで、「人間は、条件さえ与えられれば、活動的で好奇心が強く、よく努力し、他人のことを思いやるはずだ」と述べている。(波多野誼余夫・稲垣佳世子(1973)『知的好奇心』中公新書)
知の創出と継承を謳い文句に終わらせることなく、大学関係者自らがその意味を問い直す必要がある。