教育は「百年の計」などと言われたのは、大昔のことのように思える。いまやほとんど毎年、「改革」と称する見直しと節約の日々。最近の大学改革の目玉?は、ミッションの再定義。大騒ぎで出来上がった各大学のミッションを見てみたが、おおむね従来型の目標などが羅列されている。
文科省が、さらなる国立大の機能強化に取り組むとして、「ミッションの再定義」を国立大学に行わせ、各大学の有する"強みや特色、社会的役割"がその制定過程で明らかになることを期待した(みたいだ)。
それは、「国立大学の機能の強化を図るため、各大学は、人材や施設・スペースの再配分や教育研究組織の再編成、学内予算の戦略的・重点的配分等を通じた学内資源配分の最適化に、学長のリーダーシップの下で主体的に取り組む」こと(を期待する)。そして、「学内資源配分の最適化や大学の枠を越えた連携・機能強化を含む先駆的な改革を進める国立大学を、予算の重点配分を通じて支援」する(つもりだ)。
これには反対論も無きにしも非ず。本来、法人化したときに、あとは「自由におやんなさい」として、大学に裁量権を与えたはずだが、今更『再定義』を指示して、各国立大学の「強みや特色」(実は、弱いところ(大学)はなくしてしまえ)と「社会的役割」(地方国立大学はその地域のために研究・教育を行っていればよい)を明確化して、そこだけに資源=予算をあげましょう、という話ではないか、という意見だ。
ついでに打ち出したのは「学長が全学的な改革にリーダーシップを発揮できる体制が確立できるように、教授会の役割の明確化」だ。何を隠そう、教授会は学部自治の中心。それがウンと言わなければすべて物事が進まない仕掛け。大学全体で何か進めようとすると、「そもそもの哲学論、あり方の当否、先の見通しなどなど」通常は神ならぬ学長の身では分からぬことだらけ。おまけにこの教授会、だいたい出席率が悪いことが多く、特定の一言居士に牛耳られていつもややこしい神学論争。「まともに取り合っていられぬわい」と思う理系の学長ならば、相手にしたくないではないか…かくて教授会権限は縮小?の憂き目となる(だろう)。
もとにもどって、国立大学の使命なるものを愚考すれば、特定のトップクラスの研究大学があり、世界的競争の場で戦う大学とし、次は専門職を含めた教育中心の大学群、地方の人材供給を目的とする大学など多様化をしつつ分かれていくのだろうか。
すべての国立大学が研究重視というのは、所詮は無理な話。財政不如意な今後のニッポン、教育に回す予算を考えたら、集中投資が重要でしょう。しかし、高い山はすそ野が広くなければならない。国民全体の教育レベルの高さも大事だ。全部が全部、東大型の総合大学とはいかぬまでも、地域のトップレベルの教育、研究の中心ではありたい。その意味で、地方国立大学の使命を明確にしてそれに集中して取り組むことは大事(しかし「ミッション」などという横文字はいかにも胡散臭く、背後に予算削減がしのばせてありそうだ)。やみくもに反対を声高に唱えるだけではなく、逆手に使って生き延びようではありませんか。
参考になるのが、愛媛大学。2016年度に「地域共創学部」を創設する計画を打ち出す(日経新聞4月10日付)。製紙業などの地場産業や過疎化が進む集落の活性化策に取り組むそうだ。主な使命が地域との連携であっても、そこからトップクラスの学生や研究者が出て、研究「ミッション」の別の大学に移動していくというのが、未来の姿かもしれない。