「いま語り継ぐスギハラの勇気」(2014年07月17日 NHK解説委員室)をご紹介します。
きょうのテーマは「いま語り継ぐスギハラの勇気」。第2次世界大戦中、迫害から逃れるユダヤ人を、いわゆる「命のビザ」で救った元外交官、杉原千畝。そのスギハラが、今あらためて脚光を浴びています。担当は高橋祐介解説委員です。
岩渕)
「命のビザ」の話は、私も最近、本やテレビドラマなどで聞いたことがあって、杉原千畝という名前は知っていますが、このタイトルはなぜカタカナで「スギハラ」なんですか?
高橋)
漢字が難しいというのもありますが、「スギハラ」の名前は日本よりも、むしろ海外で早くから知られてきたという側面もあるのです。
こちらがその杉原千畝。外国人の中には千畝という名前を発音しやすいように「センポ」と呼ぶ人もいます。1940年、昭和15年の夏、外務省から派遣されたリトアニアのカウナスにあった日本領事館で、迫害から逃れようとするユダヤ人のために、日本を経由することを認める通過ビザを発給し、6000人の命を救いました。
岩渕)
だから「命のビザ」というんですね?
高橋)
そのとおりです。私も10数年前に中東エルサレムに赴任したとき、「スギハラ」の知名度の高さに驚かされました。エルサレムには、ユダヤ人の虐殺、ホロコーストの犠牲者を追悼する施設があって、そこの庭園に、みずからの危険を顧みず、ユダヤ人の命を救おうとした各国の勇敢なひとびとの名前が刻まれています。「諸国民の中の正義の人」というのですが、現在その数は2万5千人あまり。この中でたったひとりの日本人が杉原千畝です。
しかし、もう今では70年以上も前の話ですから、当時、幼い子どもだった人も今ではかなりお年を召しています。実は、そうした「命のビザ」で救われた人たち、「スギハラサバイバー」と呼ばれのですが、そうした人たちのいわば「最後の世代」が、このところ日本を相次いで訪れています。
岩渕)
冒頭ご紹介した方もそのひとりなんですね?
高橋)
はい。レオ・メラメドさんという方で、世界最大規模の先物取引所グループの総帥です。シカゴの先物市場に、いち早く金融商品を取り入れたことで「金融先物の父」と呼ばれる人物です。アメリカの経済界では大変有名な方なんですが、実はこの人も「スギハラサバイバー」のひとりでした。
メラメドさんはいまアメリカ国籍のアメリカ人ですが、もともとポーランドの生まれです。7歳だった当時、ポーランドはナチスドイツとソビエトによって分割されました。そこで、戦火とユダヤ系住民への迫害から逃れるため、両親とともに中立国だった隣国のリトアニアに脱出しました。乗り込んだのは両国を結ぶ「最後の列車」でした。
(メラメドさん)
「真夜中の列車は何度も停車して大混雑でした」
「人々が押し合い怒鳴りあう光景を/幼い私は窓際の席で見ていました」。
岩渕)
ポーランドから隣のリトアニアに脱出して、そこで杉原千畝に出会うわけですね?
高橋)
そうなんです。こちらはリトアニアのカウナスという街にあった日本領事館です。
当時の建物はいまも保存されています。ここでも情勢は切迫していました。ユダヤ人難民はこの建物を取り囲み、杉原千畝に日本の通過ビザを発給してくれるよう懇願したのですが、東京・外務省からの指示は、厳しいものでした。ビザを発給するためには▼日本から出国する先の手続きも終わっていて、▼なおかつ相応のお金を携えていなければならないといった決まりがあったからです。
しかし、文字通り着の身着のままで逃げてきて、目の前で助けを求める人たちを見捨てるわけにはいかない。そこで思案の末、杉原はみずからが責めを負うのも覚悟の上でビザ発給を決断しました。寸暇を惜しんで書いたビザは、記録に残っているだけでも2139枚。1枚のビザでその家族が救われたケースも多かったので、少なくとも6000人が国外に脱出することが出来たとみられています。
岩渕)
メラメドさんのように、杉原からビザを得た人たちは、そのあと、どうやって日本までたどり着いたのですか?
高橋)
こちらが多くのユダヤ人がたどった脱出の経路です。リトアニアからモスクワまで行って、そこからシベリア鉄道でだいたい2週間かけて1万キロを移動。
首尾よく極東ウラジオストクに到着できた人たちは、そこから日本海を船でわたって現在の福井県の敦賀港に上陸しました。その後、神戸や横浜などから上海、中東、アメリカなど各地にわたりました。
岩渕)
危険にさらされながら、まさに「命のビザ」で日本までたどりついた人たちには、きっと敦賀はとても印象深かったのでしょうね?
高橋)
やはり特別な思いがあるようです。大陸への玄関口だった敦賀市には今、当時のことを記録した「敦賀ムゼウム」という施設が設けられています。
ムゼウムというのはポーランド語で博物館とか史料館といった意味ですが、そこには、船から降りてきたユダヤ人たちに、地元の人がリンゴを食べてもらったり、銭湯を開放してお風呂に入ってもらったりしたという話が残っています。
当時の日本では、ほかの多くの人々の尽力もあって、たとえ杉原が訓令に背いたビザであっても無効とはせず、ユダヤ人の入国と一時滞在を受け入れたのです。
(Vメラメド敦賀港を訪問)
それだけに、今回のメラメドさんの日本訪問に同行したのですが、彼はどこよりも特別な場所、敦賀を是非ともその眼に焼きつけておきたいと熱望し、73年ぶりにこの地を踏みました。その感動は言葉にならないとおっしゃっていました。
(Vメラメド小学校訪問)
岩渕)
こちらはどういう映像ですか?
高橋)
敦賀の地元の小学校も訪れました。敦賀市では「命のビザ」の話が小学校のカリキュラムにも取り入れられているそうです。「スギハラ」の名前はここでも広く知られているんですね。メラメドさんは子どもたちに、たったひとりの人間が勇気を出して行動に移せば、命は生かされ、つながれていく。そうした杉原千畝が教えてくれたみずからの信念を、語りかけていました。
(メラメドさんスピーチ)
「正しいことをする権利は誰にでもあります/誰もが社会を変えられるのです」
(ON子どもたち拍手)
(岩渕「子どもたちにも貴重な機会でしたね」)
(メラメドさん)
「命は貴重でかけがえのないものです/守り抜かなければなりません」
「それをスギハラは証明してくれました」
岩渕)
九死に一生を得た人の言葉は、心にぐっときますね?
高橋)
そうですね。私たちも杉原千畝のこと、そして難民たちにやさしく接した当時の多くの日本人のことも、もっと知らなければなりませんよね。
母校の早稲田大学には3年ほど前、こうした石碑が設けられました。「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」石碑に刻まれた言葉は、まさに杉原千畝の鋼のような意志の強さを物語っています。
人間として当然のことをするにも困難な時代には勇気が必要になるかも知れません。そんなときのためにも、かつてスギハラのような人がいたことを日本の次の世代に語り継ぎ、差別や偏見のない寛容な社会であり続けて欲しい。それがメラメドさんたち「スギハラサバイバー」たちからのいわば「ラスト・メッセージ」です。そうした声を私たちもしっかり受け止めていきたいですね。