2017年1月29日日曜日

記事紹介|教育機会の不平等「意欲格差」

今年もまた、大学入試の季節である。センター試験に続いて間もなく私立大入試がスタート、来月下旬には国公立大の2次試験だ。長丁場の受験シーズンは話題にこと欠かない。新聞にセンター試験の問題が一斉に載るのも、世の関心の高さゆえだろう。

しかし、心すべき事実がある。数字のうえでは希望者全員がどこかの大学に入れる「全入時代」とはいっても、実際に大学へ行く若者は同年代の半分ほどなのである。

文部科学省の学校基本調査によれば、高校生の昨春の大学・短大進学率は54.7%。2000年代以降、往年の伸びにブレーキがかかり、特にこの10年ほどはほぼ横ばいである。大学入試をめぐるさまざまな話題に実感を持てぬ人々は少なくないはずだ。

そのなかには、悔しい思いをしている若者もたくさんいるだろう。

成績はよかった。やる気もあった。なのにお金がなくて進学をあきらめたという人は多い。入学しても後が続かず退学するケースも目立つ。12年度の文科省調査では、中退者7万9000人のうち2割が経済的理由だ。

それを思えば、政府が来年度から導入する給付型奨学金制度は画期的である。住民税非課税世帯の1学年約2万人を対象に、月2万~4万円を支給するという。規模は小さいが、救われる学生は間違いなく増えるだろう。

時を同じくして東京都も、世帯年収760万円未満の私立高校生の授業料を実質無償化するそうだ。さらに踏み込んだアイデアは、日本維新の会が改憲項目案に掲げる「幼児教育から高等教育までの無償化」だろう。つまり、大学の授業料を完全にただにするという話である。

こうした流れの背景にあるのは、もっぱら教育機会の不平等は経済的な問題に起因するという観念だ。

意欲と能力がある若者を支えれば教育格差は解消に向かう――。確かに一面の真理であり、公的支援の意味は大きいのだが、さて、ことはそんなに簡単なのだろうか。肝心の「意欲」自体に、成育環境などによって格差がつきまとってはいないだろうか。教育格差を語るなら、そこにも目を配らねばなるまい。

およそ子どもの学力を形成する要因として、教育社会学ではいくつかの「資本」を挙げる。ひとつは親の所得など経済的な資本だ。塾や家庭教師への支出も含め、子どもの教育にどれだけお金をかけられるかが学力を左右する。

もうひとつは文化的な資本である。たとえば家に本がどれだけあるか、幼児期に読み聞かせの習慣があったか。そして、親の学歴もその要素だとされる。吉川徹大阪大教授は著書「学歴分断社会」で、非大卒の親は子どもが大学に行くことに必ずしも価値を見いださず、それが次世代に受け継がれて社会は大卒と非大卒の2つの層に分断されていく――と指摘した。

大卒、非大卒といっても内実はさまざまだから注意が必要だが、総じて世の中はこの2つの層に分かれていて、互いが交わりにくい現実はある。この分断線の非大卒側から大卒ルートに向かおうとしたとき、見えない「壁」が立ちふさがるに違いない。

吉川氏によれば「『親が、子どもを大学に行かせたいと望むのは当たり前だ』という『教育格差』の大前提は、大卒層特有の発想に基づいている」(「中央公論」2015年6月号)。多少のお金があったとしても、あるいは奨学金が出ても、進学への意欲を持たない人々の存在を忘れてはならないのだろう。

しかし、こうした「意欲格差」は実証しにくいから、政策はいきおい経済的支援に傾く。それはそれで大切だが、社会の半分を占める層のメンタリティーの微妙さにもっと敏感でありたいものだ。

それにしても、高度成長期の日本は、親に学歴がなくても子どもは大学へという上昇移動が一般的だった。そのダイナミズムは弊害を伴いつつも社会に活力をもたらした。いま、非大卒層に属しながら潜在的な高い能力を持つ子どもが、それを生かすチャンスを狭められているとしたら不幸なことではないか。

最近では学力を形成する要因として、社会関係の資本も大切だといわれる。学校だけでなく地域が関与した学びの実践や生活のケアなどを指す。社会や他者とのつながりのなかに、教育の可能性を探る考え方である。

難しい環境に置かれた子どもを、社会が包摂する道はどこにあるか。「意欲の低い」子どもたちを置き去りにするわけにはいかない。

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