金子元久(国立大学財務・経営センター教授・研究部長)さんが、アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム、No.430)において、このような問題提起をされています。ご紹介します。
世紀の転換が意味したもの 産業構造の変化と大学教育 (金子元久:国立大学財務・経営センター教授・研究部長)
早くも21世紀の最初の10年が過ぎた。この10年間で21世紀がどのような方向を示すのか見えてきたかといえば、むしろ見えないことがますます明らかになってきた、とも言える。何がはっきりしてきて、何がまだ見えてこないのか。
高等教育の第二の拡大
はっきりしていることは、20世紀から21世紀にかけては日本の高等教育にとって、戦後第二の拡大、大衆化の時代であったということである。このように言うと、あまり実感がわかないかもしれない。しかし就学率のみをみれば、4年制大学で1990年の25%から2010年には51%に、高等教育全体では51%から73%に上昇している。いわば爆発的な大衆化が起こっていたのである。
こうした点からみれば、ここ20年間の高等教育の拡大は、かつて1960年代から1970年代中頃にかけて起こった高等教育大衆化にほとんど匹敵する規模のものであった。いわば戦後第二の拡大期であったとえいる。
しかし高度成長を背景とした第一の拡大に比べて、この第二の拡大は大きく異なる背景をもっている。1990年代初頭のバブル崩壊以後は家計の所得もほとんど横ばいが続き、進学意欲を増進させる状態ではなかった。では何が進学意欲を押し上げたかといえば、それは高卒者の就職状況の趨勢的な悪化であった。高卒者への求人数は1980年代はほぼ80万人程度の水準であったが、1990年代以降は急落し、2000年代には入ってからは20万人程度となっている。1980年代と比べても4分の1となっていることになる。高校を卒業しても、かつての中核的なキャリアがなくなっているのである。
こうした変化を起こした一つの要因は、経済のグローバル化によって、製造業部門が中国、インドを始めとする途上国に移転し、そうした産業における熟練労働者のキャリアが急速に減少したことがある。同時に、IT化によって、単純な事務処理労働の需要も減少したことも重要である。こうした要因が輻輳して、安定的な高卒労働力のキャリアを奪ったのである。高卒者は大学に進学せざるを得なくなったのである。
量的拡大から質的転換へ
しかし経済成長率が長期的に低迷する中での大卒者の拡大は、当然にも大学生の就職問題を引き起こす。昨年から今年にかけて大学生の就職問題がメディアに大きく取り上げられるようになったが、実は大卒者の就職問題は世紀の転換を挟んで生じてきた構造的な問題である。学校基本調査による大卒者の無業率(卒業者のうち、就職あるいは大学院進学をしていない者の比率)は1990年代中ころから3割弱に達し、その後2000年代中頃に一時縮小したものの、再び3割程度に達している。この数は単純に失業率を示すものではない。しかし大卒者の就職状況がかつてなく厳しい状態となっていることは明らかである。
他方で、大学進学率の上昇はこれまで家計の制約によって進学ができなかった家庭の学生が進学し始めたことを意味する。日本学生支援機構(旧日本育英会)の奨学金を受給する大学生の比率は、1990年代中頃までは12%前後であったのが、急速に増大し、2005年には25%、2009年には35%に拡大した。ここ20年間の就学率の拡大の一部は、借金によって支えられてきたといっても間違いはない。
こうした中で、大学教育に対する様々な批判が強くなるのは当然といえよう。マクロの次元では、大学入学者が過剰だとする声が、必ずしも表だっては表れないものの、かなり力を持っている。また親の立場からみれば、大学を卒業しても就職できないのは結局、大学の責任だとする意見もある。マスメディアはこうした状況を、大学がいつまでもぬるま湯につかっているからだ、というストーリーを繰り返している。
こうした批判の当否は別として、以上に述べた状況からも、高等教育の焦点が、これまでの量的拡大から、質的な転換へと移らざるを得ないことは間違いない、と私は考える。それは必ずしも政策の転換を意味するものではない。むしろ質が焦点となるということは、高等教育の将来が、制度政策ではなくて、個別大学の変革にかかってくることを意味する。具体的には大学教育の質は、三つの次元で問われる。
第一は大学教育の実質化、すなわちどのようにして学生にインパクトのある教育をするか、という点である。第二は、大学教育の適切性(レリバンス)、すなわち大学教育がどのような意味で卒業後の職業・社会生活に意味を持つのか、という点である。そして第三は、いかに大学が組織として体系的に大学教育の成果をモニターし、それを基礎に大学教育を効率化し、さらにその過程を社会に公示、説明するか、という点である。
見えないものに向かって
こうした課題に向けて、本格的な試みを各大学がはじめているかといえば、それは疑わしい。それは必ずしも大学のトップや教職員が現状に安住しているからではない。むしろ問題は、日本の社会全体がどのような方向に向かっているのかが見えないことに根差している。どのような産業が成長し、どのような技能が必要とされるかが見えなければ、将来の大学教育のイメージも明確にならないではないか。
振り返ってみると、日本の大卒就業者を吸収していたのは、輸出拡大を背景とする製造業を中核とした経済活動の拡大、それを支える企業組織の拡大であった。大学は、そうした企業組織での人材育成に適合する資質をもつ卒業生を送り出せばよかった。しかしそうした構造は大きく変化しつつある。1990年に10万人の大卒者を雇用していた製造業の2010年の大卒採用数は4万人にすぎなかった。
他方で拡大しているのは多様な「サービス業」で、新卒雇用はほぼ12万人と、産業部門として最大となり、それに「商業」が次いでいる。一定のモノの生産、流通に組織的に関わる、というだけでなく、直接に人間を対象として、多様なサービスを提供することに需要が生じているのである。組織の規模も小さいものが多く、必要とされる知識技能はきわめて多様であるだけでなく、変化も激しい。
現代の若者が将来について明確なイメージを持ち得ず、学習意欲も低いというのは、実はこうした流動的で見通しのきかない現実を反映しているともいえる。こうした学生が、上述のように多様で流動的な社会で生きていくために必要な力とはなにか。それはどのようにしてつくられるのか。既成の答えがないとすれば、それを大学としてどのように探究していくのか。こうした問題が問われているのである。
回答は決して容易ではないし単純でもない。しかし日本全体が容易ではない課題に直面しているのである。知の拠点を自任する大学がいま、創意を尽くして立ち向かうことが、大学自身にとっても、日本の社会全体にとっても、21世紀に決定的な意味をもつ。