2012年10月23日火曜日

大学入学者選抜の課題

桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれた論考「高大接続について考える」(文部科学教育通信 No.302 2012.10.22)をご紹介します。


大学入試の容易化の中で

大学入学は、今も昔も若者にとって将来を左右する人生の大きな通過点である。まして進学率が50%を超え、マーチン・トロウの分類でいうユニバーサル段階に入ってからは、大学進学は権利というよりは義務のようなものになって、学ぶ意欲に乏しい者までもが大学に行かざるを得ないような状況になってきている。学校基本調査のデータを見れば分かるが、いまや企業や公務の事務職に就く新規学卒者の8割は大学卒業ということで、半世紀前の高卒者とほぼ同じ割合にまで上昇してきた。逆に言えば、高等学校卒業だけで事務職に就くことが、近年とみに困難になってきている。もちろん販売職や生産工程・労務作業職としての仕事があるではないかと言われることもあろうが、これも産業構造の変化に伴い企業が工場を海外に移したり、あるいは販売職への大学卒業者の進出によって、予断を許さない。

もちろん大学へ進学する者が増えることは、グローバル化・知識社会化の中で、ある意味では必然であり、かつ望ましいことでもあろうが、問題は近年、大学生の学力低下が叫ばれるようになってきたことである。その原因にはいろいろあるだろうが、ひとつの大きな原因に大学入試の容易化があると言われている。かつての大学入試は相当な激戦であった。

たとえば比較的最近の1990年代初頭でも、入学志願者(現役・浪人)120万人に対して入学者(短大を含む)は80万人、3人に2人しか入学できないという難しいものであった。これに対して本年の入学志願者は73万人で、入学者は67万人であり志願者の9割以上が入学する時代になっている。この数字だけを見ても入学はきわめて容易化していることが分かる。

入学が容易化するとどうなるか? 必然的に大学入試そのものが容易化することになる。それは定員割れの私学が四大で4割を超え、短大では7割に及ぶという厳しい現実がこれをあらわしている。当然のことであるが、定員割れあるいはこれに近い大学は、入学者の選抜を行うのではなく、入学者を確保するという方策を採らざるを得ない。したがって、当初は厳しい入学者選抜試験の緩和を目指して行われたはずの入試の多様化が、逆に入学者を呼び込むための手段に転じてしまっている。文部科学省の調査によれば、平成12年度には一般入試が66%、推薦入試が32%、アドミッション・オフィス(AO)入試その他はわずかに2%であったものが、平成23年度にはそれぞれ56%、35%、9%へと変化しており、AO入試の割合が飛躍的に増加していることが分かる。また、これは私立大学においてとくに顕著であり、一般入試で入学する者の割合は50%を切っている。またその一般入試でも実施する教科・科目数はきわめて限定的である。

受験地獄に代わる学力低下

このようにして、入学志願者の学力の確かな担保のないままに学生を入れてしまうと、後が大変になることは、当然のことである。初年次教育や学修指導の充実が重要ということが真面目に言われ始めて久しいが、もともと入試がそのような形で崩れてきているのだから仕方のないことなのかもしれない。マスコミや世間の一部さらにいわゆる受験産業の業界では、いまだに入試地獄のことを言い立てる向きもあるが、現状認識の甘さにはあきれるばかりである。戦後のわが国の教育問題の基本中の基本であった「受験地獄」問題は、国立大学を中心とする一部難関校と医学部など一部の専門分野の入試に限られたものに縮小してしまった。

代わりに登場したのが、大学生の学力不足という現実である。この問題は大学の手間になるばかりでなく、結局のところ大学生の就職状況にも影響を与えるものである。企業はコミュニケーション能力とか語学力とかいうように、特定の専門分野との結びつきの薄いところでの能力不足を指摘することが常であるが、そもそも大学入学時点での学力問題を鋭く観察しているからこその批判であるのかもしれない。そうなると問題はより深刻であり、早速大学教育の信用回復のためにも、大学は学力対策をとらなければならないということになる。先頃でた中教審答申で、学修時間の増加が問題になったのもそのような文脈があるいはあったからかもしれない。

それと同時に、高校でもう少し教育をしてくれたらというのが、多くの大学関係者の希望あるいは高校に対する批判であろう。しかし、高校教育、大学入試、大学教育の三つは、入試を中心にお互いに複雑に関係し合っているから、その改善は容易ではなかろう。なぜなら、高校生が勉強しなくなったのは、ゆとり教育のせいだけではなく、大学入試が容易化したからであり、かといって大学が入試を厳しくすると、入学者の確保に困難をきたすから、多くの大学関係者は表立ってこのことを言い出すことには蹟謄を覚えるだろう。同じことが高卒認定の共通試験のようなものの導入論議でも起こりうる。これは高校側にとってデメリットになるだけではなく、大学側にとっても、入学志願者の減少に結びつく恐れがあると思えば、にわかに賛成はできかねるというのが本音であろう。

さらに、一般入試で学力を確認しているから安心ということもできない。近頃の若者は習わないことは知らないで当たり前という態度であり、これは学部生だけではなく、研究者の卵たるべき大学院生でも同じなのには驚かされる。高等教育分野に限っても、歴史的・地理的知識の欠如ははなはだしいし、数理的あるいは論理的思考能力にも問題のある者がいる。まさか語学能力だけで将来の高等教育研究者になれるとは、当の院生も思ってはいるまいが、要するに高校や大学で幅広い勉強をしてこなかった、そしてその背景に入試科目数の縮小や入試そのものの容易化があると思えば、事情には納得がいくものだ。

中教審への新たな諮問

ところで、8月に答申があったばかりの中教審に対し、早速「大学入学者選抜をはじめとする高等学校教育と大学教育の円滑な接続と連携の強化のための方策について」という諮問があったようだ。諮問理由は、これからの時代に求められる力を確実に身に付けるために、高等学校教育、大学入学者選抜、大学教育の在り方を一体としてとらえ、高等学校教育の質保証、大学入学者選抜の改善、大学教育の質的転換を進めることが喫緊の課題となり、そのための議論を深める必要があるからだとされている。

周知のとおり、高等学校は初等中等教育システムの中に、大学は高等教育システムの構成要素として位置付いており、教育内容・方法に関する法的規制、教員免許制度の有無、学校管理の制度などさまざまな点で取扱いが異なり、また前者が直接的には都道府県レベルでの管理監督、後者は文部科学省が責任を持つというように、行政のあり方まで違っている。当然、教職員はじめ関係者の持つカルチャーも違う。私などは、旧文部省の庁舎の3階(大学学術局)と4階(初等中等教育局)とであまりにも様子が違うことにショックを受けたことを、今でも思い出すくらいである。

新聞記事によると、9月末の会議には両局の局長が同時に出席したとあり、またこれが記事になるほど「画期的」であったとされるような状況であり、また審議する委員の顔ぶれを見る限り、さまざまな利害関係者を満遍なく集めているという印象もあり、どこまで思い切ったことが議論できるかが問題であるが、ぜひこれまでの発想とは異なる柔軟な思考によって、妙案を提示してもらいたいもの
だと思う。