2012年11月16日金曜日

リーダーたる姿勢

日本私立大学協会私学高等教育研究所研究員の岩田雅明さんが書かれた「リーダーの機能とは」(文部科学教育通信 No.303  2012.11.12)をご紹介します。


リーダーはスピードを上げる

大学という組織の特徴の一つとして、物事を決定したり、実行したりするスピードが遅いということが挙げられる。「今年度は間に合わないので、次年度からにしましょう」ということで、せっかくの施策が先送りされるのを目にしたことのある人は多いのではないだろうか。これも大学が長い間、常夏ともいえる恵まれた環境にあったため、無理をしてスピードを上げる必要性がなかったためといえる。

ところが大学を取り巻く環境が常夏から氷河期といわれるまでに急変し、今後も激しい変化と競争が予測されるようになってくると、それに合わせて大学のスピード感も変わらざるを得なくなる。十年経たないうちに十八歳人口は、再度、減少し始めることになる。そして大学の成果というものは、出るまでにある程度の時間がかかるものであるから、今回の減少期に生き残っていくことができるかどうかは、ここ何年かの大学の戦略と行動にかかっているといえる。ここで環境の変化に対応した行動を起こすのか、それとも一年先送りにするかどうかが、勝敗を分けるといってもいいと思う。

人間というものは、自分の部門のことを中心に考えやすいので、組織はどうしても部分最適になりやすい。大学全体としてどうした方がいいのかという視点は、なかなか持ちにくいといえる。このため、全体を見るべきリーダーが、全体の視点から各部門の行動のスピードを調節していくことが必要となる。その一つのやり方が、行動に期限を設定するということである。これが無いと、行動に移せなかった事情の説明さえうまくできれば、いつまでも行動を起こさなくても済んでしまうからである。また、リーダーが行動のスピードを上げていくことで、スピード重視の組織風土をつくっていくことにもなる。組織風土がスピード志向に変わってくると、そこでなかなか行動を起こさないでいるということは難しくなってきて、おのずと各人の行動速度も速くなってくることになる。

リーダーは決断する

組織のスピードとも関係することであるが、リーダーには組織の進む方向についての決断が求められる。これからどうなっていくのかが分からない将来のことについて、決断するということは非常に難しいことである。決めるということは、選択しなかった選択肢と、その背景にある可能性を捨てるということになるからである。卑近な例でいえば、お昼に何を食べるかといった決断でさえ、決断力の乏しい人にとっては、簡単にはいかない問題なのである。

決断するためには、できるだけ多くの関連情報を集めることが必要となる。そしてそれらの情報を整理し、分析することにより、これからこうなるのではないかという仮説を立てることになる。いくつかの仮説がある場合には、その中から最も確率が高いと思われるものを選ぶことになる。そしてその仮説が現実のものになる可能性が相当高いと判断したときに、決断が生じることになる。しかし、それはあくまでも予測であるから、100%の確率になるということはあり得ない。このため、どの段階で決断できるかどうかが決断力の差となるのである。情報を集め続け、かなり高い確率という段階になるまで待つことにより、決断の精度は高くなるが、「時すでに遅し」となる危険性も高くなってしまう。また、リーダーの遅い決断や、決断しない態度は、部下の行動意欲を減退させ、信頼関係を失うことにもなってくる。

減点を恐れるリーダーは、当然ながら決断のスピードは遅くなる。無理してリスクを取ることをしないからである。一方、行動力のあるリーダーは、6、7割の可能性が感じられた時点で決断することになる。もちろん結果の重大性によるので一概には断ぜられないが、今日のように求められる人材ニーズや、社会の変化が速い環境下にあっては、時すでに遅しとなる前に、決断するリーダーが求められているといえる。

リーダーは舵を切る

決断をし、その決定に従って行動していく中で、修正が必要な事態も出てくるであろう。思惑が外れることもあるだろうし、決定後にも、絶え間なく環境が変化していくからである。このような場合には、リーダーに果敢な舵取りが期待される。迅速な決断は、迅速な修正を前提として成り立つものだからである。進む方向性が違っていると感じた時には、面子にこだわることなく、また惰性に流されることなく、新たな方向に舵を切ることが大切である。

どういう方向に大学の歩みを進めていったらいいのか、規模を大きくすることをめざすべきなのか、それとも徹底的に質にこだわっていくのか、どのような学部内容にしていけばいいのか、教職員の働き方をどうしたらいいのかなど、大学を取り巻く、先行きが不透明な課題は山積している。誰にも、どの道が正解なのかということは分からない。そうであるならば、取りあえず正しいと思われる道を選び、そこを進んでいき、壁に当たった時点でまた考える。そしてまた、新しい道を模索していくということで進めていくしか、適切な方法はないのではないだろうか。

もちろん慎重な検討は必要なことであるが、サントリーの『やってみなはれ精神』ではないが、果敢にチャレンジし、果敢に修正するという姿勢が、これからの大学では必要になると思う。

リーダーは責任を引き受ける

だいぶ前のことであるが、金融機関から大学の幹部職員に転身した人の感想を、雑誌で読んだことがあった。それによると、大学では、責任者が責任を取らなくていいということが、大きな驚きであったと書かれていた。一般の企業では、自分の失敗だけでなく、部下の失敗についても責任を取らされ、減俸といったことも少なくない。企業のトップであっても、業績不振が続けば交代ということも、よくあることである。評価の厳しい業界にあっては、昨日まで店長だった人が、売り上げが伸びない責任を取らされて、一店員となるというようなことも珍しくないようである。

確かにそのような企業の状況と比べたら、大学は無責任体制といってもいいような状況であろう。学生募集状況が芳しくないので、その責任を取って学長や事務局長が辞任したというような話は、幸か不幸か間いたことはない。これは責任ある立場の人だけということでなく、教職員全般に当てはまることである。これはある意味、いいことでもある。いつも緊張した環境の中で働くということでなく、他人を責めることのない伸び伸びした環境で働けるということは、精神衛生上も好ましく、幸せなことである。

しかし、それは起こすべき行動を起こしている、ということを前提としていなければならない。リーダーが取るべき行動を取って失敗したとしても、それは責められるべきではない。教職員が取るべき行動を行って失敗した場合も同様である。したがって、リーダーが取るべき行動を取らずに状況が悪化した場合は、自ら責任を負うべきであるし、教職員が取るべき行動を取らずに状況を悪化させた場合には、責任を取らせるべきである。そうすることで、失敗を恐れて行動を起こさないということをなくすことができ、何もしない責任というものを強く感じられるようになるからである。

責任体制といつものを、何事にもチャレンジしていくという方向性の中に位置づけていくことが、リーダーに求められる決意といえる。