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月を指(ゆび)さしているのに、肝心の月を見ないで指ばかり見ている。つまり、目の先のものにかまけて、ことの本質に目が向かない。分かりやすいからか、似た例えは世界にあるようだ。親鸞にも「汝(なんじ)なんぞ指をみてしかも月をみざると」のくだりがある。
高名な宗祖と暴走大臣を並べるのも何だが、田中真紀子文科相をめぐる騒動にも同じことがいえないか。非難の声は高く、野党からは問責決議の声も上がる。だが政争の具にするばかりでは、指の先の月を見ないことになる。
たとえば、大学を新設するプロセスも一般にはわかりにくい。認可が下りる前から建物が造られて、募集のPR活動が行われる。これを奇異に感じる人も多いのではないか。
大学の設置認可制度の手引を文科省が作っている。見ると、「新規参入のハードルは格段に低くなっている」「不認可とされる事例は極めてまれ」といった文言がある。これでは乱立もやむを得なく思われる。
そして今、総定員が進学希望者より多い全入時代である。独自の試験をせずにセンター試験ですませ、中には学力審査がない大学もある。仮に学生の頭数がそろえばいいという了見なら、学ぶ者のための大学か、経営者のための大学か、わからなくなる。
迷惑きわまる真紀子台風だが、暴君キャラをあげつらって終わり、にはしたくない。政治もメディアも、「文教ムラ」の空にかかる月を、一度よく吟味する必要があろう。教育は国の基(もとい)だから、くすんだ月であってはいけない。