"Most ignorance is vincible ignorance. We don't know because we don't want to know."(拙訳:大半の無知は克服可能だ。我々が知らないのは、知りたくないからである。)
引用したのはイギリス出身の作家オルダス・ハクスリーの金言である。私たちは知らぬ間に不都合な事実を看過し、独善的な無知へと堕落していく。そのような無知は他者にとって極めて暴力的なものになり得る-1年半前に沖縄を訪れたとき、私はそう痛感した。
2015年冬、私は国吉勇氏の戦争資料室を訪れた。そこには十数万点にも上る遺品が保管されている。陶器製地雷・炭化米・曲がった注射器・杯... 異様で不気味な遺品の数々を鷹揚に手に取りながら、国吉氏は私に各々の遺品の説明をして下さった。
「地雷が陶器で出来ているのは鉄が足りなくなったから。日本軍は兵站を軽く見ていたんよ。」
「米が焦げてるのは火炎放射器のせい。アメリカが壕の中に火炎を放ったでしょ? そのせいで食べ物は炭になるし、ガラスは融けて曲がる」
「日本軍の陣地にいた兵士が切り込みを命じられたとき、死を覚悟して酒を呷った時の杯だと思う。天皇陛下万歳って叫びながらね...」
一言一言をかみしめつつ、虚空を向いて物語る国吉氏をじっと見ていると、まるで彼の境界線が融け遺品と混じり合うかのような印象に取り憑かれる。遺品から読み取られる事実を淡々と語る彼の言葉からは、沖縄戦の苦しみの中で尊い命を失うことになった多くの魂が遺品に託した怨言と内省がにじみ出ているのだ。全体主義に狂乱し、浅薄な作戦に組み込まれ、最後は国体護持のための捨石として総勢20万人が命を落とす苛烈な地上戦の舞台となった沖縄が戦後70年間ため込んだ思いの重みに、私はただ絶句するばかりだった。
国吉氏のお話を伺うまで、私は沖縄戦の被害の甚大さをほとんど知らなかった。沖縄の方々がどのように戦争に巻き込まれ、どのような苦難を味わったのかについて、思いを致したこともなかった。「毎日どこかの壕で遺品は出るから」と語る国吉氏のお言葉を聞いて、私は初めて、沖縄戦は本当に終焉した訳ではないのだと気づかされた。
無知とは暴力的なものだ。私のように沖縄県外に住む者が概して持つ沖縄に対する無知は、深刻な無意識的差別を生み出している。沖縄戦の歴史を知らぬまま(結果、沖縄の怒りの原因を理解せぬまま)、当事者の沖縄を差し置いて基地問題を軽々に議論する我々の姿勢がその顕著な例である。冒頭のハクスリーの言葉を思い出して欲しい。
私たちは沖縄のことを知れないのではない。学ぶのを避けているだけだ。「本土」が沖縄に強いた惨烈な仕打ちに目を向けたくない、という防衛機制である。国吉氏の遺品を見、彼の話を聞いた私は、自分のこれまでの態度を反省するほかなかった。
国吉氏に今、時間の経過という悪魔が襲っている。昨年3月31日には遺骨/遺品収容から引退され、その後急速に物忘れが進行している。「国吉氏が遺品の話が出来るのも、あと1~2年だろう」と彼の周囲の人々は漏らす。
これまで国吉氏が収容された遺品に関する調査はほとんど行われなかったため、各々の遺品がどこで、どのように見つかり、そこから何を読み取るべきか、知っているのは国吉氏しかいない。国吉氏が話せなくなると共に、遺品の声なき声を聞き取り語ることの出来る人はいなくなる。
遺品は、沖縄戦の状況、特にその持ち主の視点から見た沖縄戦中の生活史を研究する上で貴重な材料となる。さらに、適切な解釈と共に見せられれば、戦争体験者本人の肉声として見る者に迫り、地上戦の醜悪さをまざまざと見せつける。戦争経験者が年々減少し、戦時中の事情をリアリティをもって検証・継承することが難しくなる中、遺品が人々に沖縄戦の実相を伝え沖縄への無知・無思考から脱却させるのに果たしうる潜在的可能性は大きい。時間が遺品の声を聞き取れなくするのを、拱手傍観する訳にはいかない。
そこで、私は国吉氏への集中的なヒアリングを行い、彼が話せるうちに遺品に関する様々な情報を聞き取り、保存する活動を行うことに決めた。その情報は誰でも閲覧できる形で保存すると共に、定期的に遺品の展示会を通して人々に発信していくつもりだ。既に来る6月23日(金)~6月25日(日)には福島県いわき市の菩提院袋中寺で展示会を行うことが決定している。
最初に引用した警句は、私たちの採るべき道を示しているかのように思われる。知る機会と勇気さえあれば、無知は超克できる。そのための土台を築くべく、私は国吉氏から引き出せる全てを書きとめ、社会に共有したい。一刻も早く沖縄に赴き、彼の話に耳を傾けようと思う。
=写真= 菩提院袋中寺での展示会のビラ。