大器晩成者に共通する二側面がある。
一つはすべての過去の体験、幸も不幸もすべて栄養源として将来に生かそうと努力していること。
もう一つは自分の持つ弱味、欠点、不足、すべてを強味に変える努力をしていることだ。
過去を詠嘆(えいたん)のものとしてはいけない。
弱味を不幸と考えては情けない。
完全な条件下に生きたものはない。
完全にしていく努力の中にこそ生き甲斐がある。
性格の弱さは欠点かもしれない。
強い人間と戦えば敗れるだろう。
そこでがっくりくるの は、大器晩成者の選ぶところではない。
勝っても血で血を洗うのは好ましくない。
ではどうするか。
強者を相手に勝つ法はいくらもある。
力づくで向かってくる鬼の弁慶も、燕(つばめ)のような早業(はやわざ)で体をかわす非力な牛若丸の前に屈したではないか。
かわし抜くのも勝法の一つ。
もっといい方法は、別の土俵をつくることだ。
利のある所、人は砂糖にたかる蟻のごとく集まる。
一つ土俵での利のとりあいは、笑う者と泣く者とに分かれ、常に闘争に心がさいなまれ休まる時がない。
人の気づかぬ別の土俵を自らつくればいい。
人生必ず人の気づかぬ隘路(あいろ)はある。
利を競わず、新しい利を生むことだ。
悪の花はあるが、善の花はないと言った人がある。
利を得るには悪の花によるしかないというのは浅はかである。
善の花を咲かせるために、善の根を張らせればいい。
善根を施すことだ。
善根を施すとはいうが、悪根を施すとは言わない。
善根を施しつづければ、いやでも善の花は咲く。
善の実もとれる。
多少の、辛抱はいる。
悪の花などはボードレールにまかせればいい。