大学には、びっくりするほどたくさんの会議があります。また、「こんな会議、時間の無駄なのでは?」と感じる会議も山ほどあります。でもなぜか会議はなくなりません。なぜなのでしょうか。答えは簡単です。「会議でみんなで物事を決めることや、会議に出席することに意義がある」と考えている役員や教職員がいるからです。
大学に置かれた多くの会議のメンバーは役員と教員で占められています。最近は事務職員の経営参画の重要性が少しずつ認識されはじめてきましたが、大半の会議では、事務職員には発言権がなく、「陪席」「列席」といった形で会議に臨んでいます。したがって、会議の構成員ではない事務職員が「無駄な会議はやめませんか」と提案したところで実現するはずがありません。逆に、会議賛成派の教員達から「仕事に対するやる気がない」と睨まれるだけです。
しかし、無駄な会議は大学の経営効率化を阻害する大きな原因となっていることは誰の目から見ても明らかです。国からの税金投入が年々削減されていく中で、もはや大学には、非生産的な会議を放置する余裕はありません。即刻、不要な会議を廃止し、必要最小限の会議について有効活用に向けた取り組みを進めるべきなのです。
「無駄な会議」というキーワードでネット検索してみると、実に多くの記事にヒットします。民間、公的機関を問わず、いかに無駄な会議が多いか、解決方策をさがし求め悩んでおられる方がいかに多いかがよくわかります。では、「無駄な会議」とはいったいどのような会議なのでしょうか。日本ファシリテーション協会が発表している「ファシリテーション白書2008年度」の中に、会議ファシリテーションに関するデータが掲載されてあります。この中に、「会議がうまくいかなかった要因」という項目があります。面白いので回答のあった全ての要因を転記します。
- いつも発言する人が決まっており、発言しない人もいる
- 会議中はホンネが出ず、終わってから意見が出てくる
- 何のための話し合いなのか、目的や内容がよくわからない
- 資料を読めばすむようなことを、話し合いの場でやっている
- 意見がまとまらず、時間をかける割には何も決まらない
- あいまいな結論や次回への持ち越しが多い
- 進行が行き当たりばったりで、成果の出るのか不安だ
- しらけムードがただよっており、意見があっても出そうとしない
- 論点が明確ではなく、議論がぐるぐるまわる
- 思いつきや脱線ばかりで、話があちこちに飛んでしまう
- 議論がかみあっていないことが多い
- 目上の人が長々と演説するのを、ひたすら拝聴させられる
- 議長判断で、そもそも人の意見を聞く気(ムード)もない
- 同じ主張を繰り返すだけで、水掛け論になっている
- 終了時に決定事項やアクションプランを確認していない
- 「声の大きい者勝ち」や「言った者負け」がまかり通る
- いつも同じレイアウトで、座る席も決まっている
- 他人の意見を批判したり攻撃ばかりしている人がいる
- 議事録が記録されず、全員がバラバラにメモをとっている
- 筋の通らない意見や意味不明の意見が平気でまかり通る
- 意見の食い違いが個人攻撃にすりかわってしまう
- 参加者同士が妨害や、足のひっぱり合いをしている
- 相手を説得したり、言い訳したりする場になっている
- いつも時間通りに始まって、時間通りに終わっている
- 根回ししているので形式的な会議になっている
いかがでしょうか。ズバズバと当たっていますね。以下の記事も結構納得させられる内容です。(消去される恐れがあるので全文転記します。)
「無意味だ」と言いながら、どうして会議の改善をしないのか (ITmediaエグゼクティブ)
無駄な会議の責任分散効果
なかなか進まない会議が現代の企業においてもいかに多いか、そしてそれに対して現代の企業人たちはいかにうんざりしているか、にもかかわらず彼らはそこからの脱出を本音の部分でほぼ諦めてはいないか、を考えた。
「また会議だ。仕事にならないよ」「無意味な会議なのに、時間の浪費だ」「何とかならないのかな、ったく」・・・。現代の企業人たちはそうこぼしながらも、従順に会議室へ向かう。確かに無駄な会議によって浪費される時間や経費は、バカにならない。
一方彼らは、「会議は居心地が悪くない」と潜在的に思っているふしがある。実は会議に出ている限り、彼らはいかにも仕事をしている錯覚にとらわれ、そして現状のわずらわしい仕事から解放される口実を得られる。おまけに、会議はともすれば「責任」を分散してくれる。彼らは、無意識のうちに会議を歓迎してはいまいか。
それにしても彼らは従順すぎないか。安易に逃避していないか。時間や経費が浪費されているのなら、「何とかならないか」ではなく、「何とかしよう」として行動を起こさなければならない。そんな会議に頼る間違った経営から脱出する方法を探ろう。
アンケートに見る無駄会議の実態
無駄な会議が多いと一般的に言われているが、それを裏付けるデータがある。
若手エンジニアに対するアンケート調査によると(Tech総研04年実施)、「会議は、ほぼ50%以上は無駄と感じる」と答えた人は過半数(56%)、「30%くらいが無駄」を含めると84%が会議を無駄と感じている。
さらに別の調査で、普段の会議を「不必要な会議」(「の方が多い」も含めて)と感じる人が約36%、出席する会議で「論点がずれて判らなくなる」(「場合もある」も含めて)が50%、「何が決まったか判らないまま会議が終わる」(「ことが多い」も含めて)が約47%にもなる(プレジデント社調査、「プレジデント」05年11月)。
そんな無駄な会議は、即刻止めるべきだ。これが最初に打つべき手である。筆者は無駄な会議を止めたら、会議数が30%減った経験を持つ。次に、残った70%の会議について、会議時間を1時間に短縮する。世にはびこる「会議」本が役立つのは、それ以降である。
会議の目的は、情報伝達・意思決定・意見調整・及びその併用と大別され、さらに細分化すると、(1)情報収集、(2)伝達、(3)交流、(4)参加者の教育・スキル向上、そして(5)問題解決、(6)意思統一・一体感・帰属意識の醸成、がある。
(1)、(2)、(3)の会議は、即刻止めるべきである。全体部課長会議や安全衛生会議などの定例会議がこれに当る。書類配布やファクス、メールで充分である。そんな手段では徹底を欠く、顔を合わせる必要があるなどというのが、会議廃止に反対する主な理由である。それは、事務局が仕事を失いたくない言いわけにしか過ぎない。惰性で会議形式がとられている集まりは、思い切って止めなければならない。根強い抵抗を思うと、トップダウンで行くべきだ。
セレモニー会議の不毛と主旨明確化の必要性
(4)も曲者である。この目的を達するには確かに会議形式がよいが、主旨が曖昧で不徹底なら無意味な会議になる。例えば筆者の経験で、過去の重大事故の反省をする品質会議が(4)に相当した。しかし本来の会議の主旨である自部門の事故を徹底的に反省することや、他部門の事故を他山の石とすることが忘れられ、社内では「あの会議はセレモニーだ」などと言われた。加えて、「この会議に出席する者は、カラーシャツはまかりならぬ。白ワイシャツを着用のこと」というお達しが出るに至っては笑止千万、会議をますますセレモニー化した。そんな会議は止めるべきだ。この種の会議を開くなら、出席者に主旨を充分徹底し(「教育のため」、「啓蒙のため」などと単にお題目を唱えても駄目だ。主旨を判り易く噛み砕いて、何度も何度もくどいくらい周知徹底しなければならない。
幹部は社員が主旨を知っていると思い込んでいるが、彼らは全く理解していない。かなりレベルの高い企業でも、経験上そう言える)、形式を排除して、実のある会議運営をしなければならない。
割り切る会議と不可欠な会議の区別
(5)、(6)は、会議として欠くことができないだろう。しかし、無駄な会議もある。例えば「開発会議」と称して新製品の開発計画を議論する極めて重要な会議を、「あれはトップと幹部の勉強会だ」などと噂されている例がある。事実幹部の「ご指摘」は、いつもあまり役に立たない。むしろ開発をディスターブされることが多い。それならば、それはそれで「勉強会」、あるいは「開発費をもらうための説明会」と割り切ればよい。
ただ、通常会議を開催するとき習慣で2時間を設定するが、1時間で充分である。筆者は、ある時から自分の主催する会議をすべて1時間に設定した。すると長引いても1.5時間で終わり、やがて1時間で終わるようになった。もちろんそのための準備と議長のテキパキとした采配が必須だ。時間内に終わらないときは、後日再開催するにしてもとにかく一旦終了するのがよい。
以上をまとめると、有無を言わさず会議数を30%減らす。そして残りの会議時間を半減する勇断を下す。その実行には、トップや当事者が深刻な問題意識と覚悟を持ち、強力なリーダーシップを発揮することが必須である。トップダウンが期待できないなら、せめて自分の影響が及ぶグループ、あるいは自分が主催する会議から始めよう。
ほかにもこんな記事もあります。
無駄な会議の中でもさらに“無駄”なものとは? (ITmedia Biz.ID)
さて、国立大学には前回の日記でご紹介したように、教育研究面の重要事項は、学部長など学内組織の代表者で構成される「教育研究評議会」で審議・決定することになっています。ただし、複雑かつ重要な案件を1回限りの教育研究評議会で審議・決定することは現実的ではないことから、実際には、学長、副学長、部局長等で構成される会議をあらかじめ開き、部局長から意見を聴取し、各部局(教授会)で議論した結果を教育研究評議会に持ち寄るといった方法が多くの大学で採られています。また、教育研究評議会に諮られる重要事項の多くは、細分化された学内の委員会でまず原案が検討されます。委員会は各部局から選出された委員で構成され、各部局の利害調整の場になっています。そのため、原案作成段階から迷走を続ける案件も少なくなく、各部局の合意を取り付けるまでに数ヶ月かかる場合もあります。こうした屋上屋を重ねる煩瑣な手続き、つまりは会議のための会議を何回も繰り返してようやく1つのことが決まっていくしくみになっているのです。
学長が大学経営の先頭に立ってリーダーシップを発揮することが期待されていても、こういった「部局自治」の縛りがかかった中では手も足も出ませんし、学内コンセンサスを得るためだけのリーダーシップで終わってしまうのです。
最後に会議コストについて触れます。無駄な会議を無くしていくために、会議を運営するために必要なコストを視覚化することは不可欠です。ある中規模大学(4学部程度)の試算によれば、会議には、委員(高給教員)の人件費、列席者(幹部事務職員)の人件費、資料等作成者(担当事務職員)の人件費とともに、照明・冷暖房費、資料印刷費、録音テープなどの消耗品費等が消費され、役員会、経営協議会、教育研究評議会の法定3会議だけで年間約2千万円也、その他の全学委員会や学部での会議を含めると、大学全体で年間約6億円もの費用がかかっているそうです。
無駄な会議を繰り返している間に、無駄なお金(税金)がダラダラと垂れ流されているのです。