2010年11月16日火曜日

Okinawa 2010  座間味島の集団自決 (1)

2010年の沖縄旅行記も最終章となりました。今回から数回に分けて「沖縄戦における集団自決」についてご紹介し旅行記を締めくくりたいと思います。

平和の塔

座間味島は、太平洋戦争時の沖縄戦において、米軍の沖縄上陸第一歩の地となった島です。沖縄攻防戦の防波堤であった慶良間列島は、海空から激しい爆撃を受け、悲惨な戦場となりました。

座間味島では、その時に亡くなられた集団自決者を含む島民や兵隊1220名が「平和の塔」にまつられ、沖縄本島にある「平和の碑」と同じように全ての戦没者の名前が碑に刻まれています。


平和の塔入口



案内板には「平和の塔:1945年3月22日、米軍は沖縄攻防戦の防波堤であった慶良間諸島を海空から攻撃し、同年26日、沖縄戦の第一歩となる上陸が行われたのが本村です。当時、最も惨酷悲惨だった集団自決者402名を含め、軍民合わせて1220柱の英霊を慰める平和祈願の塔です。」と書かれてありました。

くねくねした階段を登っていきます




座間味集落を見下ろす場所に建てられた石碑には、
”ふるさとの山河に散りしみ霊(たま)らの
語れぬ無念(おもい)永久(とわ)に忘れじ”
と刻んであります



眼下に広がる座間味集落と港




平和の塔












平和を誓う座間味村慰霊祭の様子




出典:沖縄・慶良間諸島のシーカヤックガイド・さのっちの 島で遊ぶログ

集団自決の碑

「農業組合の壕」の跡地に建つ「59名集団自決の地」と書かれた碑



案内板には、「集団自決の地:1045年(昭和20年)3月26日昼近く、村の首脳部(村長、助役、収入役他役場職員)とその家族合わせて59名が入った産業組合の豪にて、集団自決が行われ全員が亡くなくなられました。当時沖縄県民は明治以来、教育を通して言葉や生活習慣等を身につけるよう努力してきて、昭和期に入ってからはそれが加速度的に国家からの押しつけとして強要されました。その反動として米英への異常なまでの憎悪と、それに付随する恐怖心を深く植えつけられました。「集団自決」は、まさに国家がおしつけてきた歴史の総決算だったといわねばならないかもしれません。亡くなられた方々の御冥福を心よりお祈り致します。」と書かれてありました。


集団自決を知る文献等

▼沖縄戦での住民集団死・集団自決と捕虜処刑(出典:鳥飼行博研究室)
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kerama.html

▼母の遺したもの-沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言(宮城晴美著)

▼”集団自決”62年目の証言~沖縄からの報告~(NHKクローズアップ現代 2007年6月21日(木)放送)(出典:原爆と戦争責任)
http://blog.goo.ne.jp/stanley10n/e/312f9ae10b5a50e5f3407e06d0eb56a8

▼「誰も沖縄を知らない」(森口豁著)(抄)

「集団自決」は村幹部の命令だった-座間味島 

親が愛する子らに手をかけ、子が親を絞め殺す。死にそびれた者は自らののど元をカミソリで切り裂き、後を追う・・・。

これは沖縄戦のさなかに各地で相ついだ住民たちの集団「自決」の様子である。米軍上陸で恐怖におののいた住民らが暗い壕の中で身を寄せ合い、カミソリや丸太棒などを用いてたがいに殺し合った。座間味島の「自決」者総数は、当時の人口の4人に1人にあたる135人。犠牲者の数は渡嘉敷島の「自決」に次いで県下で2番目である。その中には、わずか12歳以下の幼少年が23人も含まれていた。

その凶行の原因を座間味の人々は「島に駐屯していた日本軍の命令」と語り継いできた。現に座間味島の目と鼻の先の渡嘉敷島では、日本軍守備隊長の命令で329人もの住民が命を絶っていた。だから座間味島のそれを「軍の命令」と言いつづけても不自然ではなかった。

しかし、地獄の淵をはい上がって生き延びた一人の女の「娘への遺言」が、半世紀つづいた”島の伝説”をくつがえした。遺言にこだわりつづけた娘が、母の死から10年の歳月を経て自決の真相をおおやけにしたのである。「軍命」のままにしておきさえずれば地域に波風が立つことはない。なのに、彼女はなぜそれを明らかにしたのか。そこにいたるまでには、母と子それぞれの心の葛藤があった。

母の遺言

「そっとしておいたほうがいいことってありますよね、おたがいにとって。まして「集団自決」のような事柄は人々に及ぼす影響が大きすぎます。被害者も加害者も好むと好まざるとにかかわらず、この小さな島の中で隣り合って生きていかねばならないんですから・・・」

野鳥のさえずりと梢にそよぐ風の音しか聞こえてこない静かな座間味島。時間がとまってしまったようなのどかな島のなかで、宮城晴美さんは語り始めた。島で惨劇がくり広げられたあの若夏の季節がめぐり来ていた。

宮城さんは1949年3月、座間味島で生まれた。戦争を知らない団塊の世代だ。その宮城さんも沖縄の多くの人々と同じように、「座間味の集団自決は軍の命令」と信じ込んできた。だから母・初枝さんが口にした「真実」は意外だった。

「集団自決は日本軍の隊長が命じたというのは真実ではないのよ」

娘を前に初枝さんがこう切り出したのは1977年3月26日、死者たちの33年忌法要をすませたその夜であった。宮城さんにとって初めて聞く話だった。母は戦争当時24歳。村役場の職員で、「自決の真相」を知りうる立場にある。だからその告白には迫力があった。

それ以降、宮城さんは仕事の合間をぬっては ”母の遺言”の裏付け調査をつづけた。生存者たちを訪ね歩き、その重いロを開かせるのに何年もかかった。そんな中からなんともやりきれない事実が浮かび上がってきた。集団自決は、なんと当時の村の幹部たちの指示で起きていたのだった。

村民の命を守るべき村長ら村の幹部が、なぜ住民に死を強いるようなどとをしたのか-。

悲劇の引き金は役場職員がふれまわった伝令であった。1945年3月25日夜、激しい艦砲射撃で島のあちこちから火の手が上がっていた。

「住民はいますぐに忠魂碑前に集まれっ!」

これを合図に、屋敷内や防空壕に身をかくしていた人たちが、集落後方の社の中にそびえ立つ忠魂碑をめざし家族や親戚共々かけつけた。しかし、砲弾が飛び交う中、そんな所にとどまってはいられない。家に引きかえず人、山中にとってかえず人・・・。あちこちで「自決」が起きたのはその直後であった。

「私がこれまでに会った生存者は、だれ一人として「自決せよ」とか「玉砕しろ」という命令は聞いていないと言うんです。なのになぜ死に急いだのか。「忠魂碑」という言葉を聞いたからなんです。これは軍の命令だと・・・。忠魂碑が果たしていた役割を考えるとそれはごく自然なことなんです」

宮城さんは、いまも当時そのままに姿をとどめる忠魂碑を見つめながらこう言った。碑の台座には米軍の艦砲弾が直撃したときにえぐられた痕跡がくっきりと残っている。

自分に手向けた野の花

いまこそ国に命を捧げるときがきた-。

そう信じた人々は、村を取り巻く山あいの木立ちや防空壕の中でつぎつぎと命を絶った。自決には猫いらず、ナタ、カマ、カミソリの刃、丸太棒、荒縄、ロープなどさまざまな物が使われた。ロープは木の枝から身体を吊るすのに用いられた。日本軍から手に入れた手榴弾や銃剣で死んだ者もいれば、幼い子の腕をつかんで振りまわし、岩にたたきつけて死なせた父親もいた。

犠牲者の年齢は生後2ヵ月の赤児から80歳代の老人まで。祖父母を含め一家13人が全滅した家族もある。妻や子を殺した末、自分一人の力では自害できず、死にそびれた父親もいる。

宮城さんの母・初枝さんの場合は、2歳年下の妹ら女子青年団仲間4人いっしょに手榴弾で自殺を図った。しかし代わるがわる何度岩にたたきつけても手榴弾は破裂しなかった。幸いなことに彼女たちが持っていたのはその一発だけだった。

そのとき青年団員として初枝さんと行動を共にした大城澄江さん(当時24歳)に会うことができた。現在島にいる2人の「自決」体験者のうちの一人だ。もう80歳になるというのに彼女はまだ畑仕事をしていた。縁側に腰を降ろした大城さんは当時のもようをこう話す。

「うちら4人は軍の飯炊きや弾運び、食糧運びをしていたんですよ。砲弾が次々飛んでくるんで、松の木の後ろにかくれてよけたりしながらね。熊本の江口さんと言ったかね、山の中で会ったその日本兵は「自分は今から斬り込みに行く」というていましたよ。そして「敵が上陸したらひどい殺され方をするから、これを敵に投げつけ、あんたたちは生き抜きなさい」いうて、手榴弾をくれたんです。でもその弾でうちらは死ぬことにしたんです」

空にはおぼろ月が浮かび、浜に打ち寄せる波の音にまじって米兵の声も聞こえた。沖は無数の軍艦でびっしり。辺りには日本兵の死体がごろごろ転がり、夜だというのに時折カワガラスの鳴き声が聞こえた。そんな中で4人は身を寄せ合い「君が代」を歌って皇居の方角に向かい遥拝した。そして一本のツツジの花を、いままさに死のうとしている自分たちの枕元に立て、手榴弾の栓を食いちぎって岩に叩きつけた。

「うちらも聞きましたよ、防空壕の所に伝令が来て、忠魂碑前にすぐ集まるようにって・・・。ああ、いよいよ死ぬんだなあ、という気持ちになりましたよ。島のだれもがそう思ったんです。もう死ぬことだけを考えていましたよ、あのときは」

「忠魂碑」と母の苦悩

座間味島の人々を狂気に走らせた忠魂碑が島に建ったのは1941年7月。アジア・太平洋戦争が始まる直前のことである。その前年は神武天皇による「建国2600年」の節目の年であった。国をあげて大がかりな奉祝行事がおこなわれる中、沖縄県下でも日清の日露戦争の死者を合祀した神社・招魂社が沖縄県護国神社に昇格、国家への忠誠心を揺るぎないものにするための動きが進んでいた。

それは離島など僻遠の地に住む人々の心理状態に多大な影響を与えた。座間味島の忠魂碑は、満州事変などで死んだ4人の名を刻むだけのものだったが、島中で募金運動が展開され、出来上がった碑には帝国在郷軍入会会長で元陸軍大将・井上幾太郎の揮毫した題字や、天皇のために命を捧げることを惜しまないと歌った「海ゆかば」の歌詞まできざまれた。

以降、島では日本軍が真珠湾を奇襲攻撃した12月8日を記念して、毎月8日に役場や学校の職員と全住民が忠魂碑前に集まり、「君が代」を歌って皇居を遥拝するまでになった。島に日本軍が配属された翌年の45年1月からは兵士も加わり「戦陣訓」がたたき込まれた。生きて虜囚の辱めを受けず・・・と。

宮城晴美さんは言う。

「その場所に集まれというのだから、住民は「自決」と結びつけざるを得なかった。ましてあの時代は、敵に捕まれば男は八つ裂きにされ、女は強姦される、と聞かされていたんですから・・・。

じつは、座間味島の集団自決を「日本軍の命令」と最初に公言したのは宮城初枝さんであった。1957年に厚生省がおこなった戦没者実態調査の際、初枝さんは村の長老から頼まれ「自決は隊長命令によるもの」と証言。追って62年4月、彼女が書いた戦時体験記が農家向け月刊誌『家の光』に戦った。この中で初枝さんは、村役場職員の伝令についてこう書いた。

「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」

体験記では断定的な表現は避けたつもりだった。しかし伝令役が村役場の職員、手記を書いた本人も役場に籍を置く女子青年団員として終始軍と行動を共にした当事者の一人だったことで、彼女の手記は一人歩きをはじめた。東京の出版社や新聞社が刊行した「沖縄戦秘録」や週刊誌、テレビなどがつぎつぎとこれを引用、沖縄県編纂の『沖縄県史』(戦争編)にも手記の全文が転載された。初枝さんの”貴重な体験”を本人の口から直接聞こうと、本土からやってくる人も後を絶たなかった。

だが、年がたつにつれ初枝さんの胸中には、それでよいのだろうかというわだかまりが募ることになった。その一つは、座間味島守備隊長の梅澤裕・元海軍大尉が存命中であることだった。「自決は軍の命令」とする自分の証言で一人の人間を社会的に葬ってしまってよいはずはない。生きているうちになんとかしなければ・・・という焦り。

もう一つは戦没者や遺族に対する国の援護法の問題であった。同じ戦争犠牲者でも「自決」(自らの意志と行為による死)では見舞金や遺族年金は支給されない。このため遺族らは身内の死を「軍令」と申告、年金などを受けている。その総額は村の税収の2倍に当たる年間1億円にも達していた。証言を覆すことで関係者に迷惑をかけては・・・。

初枝さんはこうした〈内〉と〈外〉の狭間で苦しみぬいたすえ、娘に真実を告白したのだった。

宮城晴美さんは言う。

「日本軍の命令、としておけば島の人同士傷つけあわなくて済みますし、外部の人々が理解しやすいことはたしかです。でもそれでは戦争の本質を覆いかくすことになると母は悩んでいました。私もそんな母の気持ちに共鳴していました」

宮城さんは母の言いつけ通り「真相」の再調査をおこない、それに歴史的背景を書きたして一冊の本として世に出した。『母が遺したもの-沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』(高文研)と題したその本が出版されたのは、母・初枝さんの10年目の命日にあたる2000年12月6日。さまざまな困難をおして真実を追求しつづけた母と娘の共作である。

今も残る”後遺症”

-で、あなたのしたことに関して、島の人々の反応はどうなんでしょうか。

忠魂碑がそびえ立つ社のデイゴの木の下で、私は宮城さんに問いかけた。

「きびしいものがありました。「そんなことを何でいまさら!」と怒る人、「年金の返却を求められたらどうする」と心配するお年寄りもいます。無言電話もかかってきましたし、「あんたをこの島に居れなくしてやる」と言われもしました」

宮城さんは淡々と話したが、その表情にはやはり苦渋の色が見えかくれしていた。小さな島の中に小石を投げれば、その波紋は予想を超えて広がる。現に彼女の本を「座間味島の恥さらし」と切って捨てる人もいるし、自分の父が家族に手をかけたことを知り、生きていけないと涙する人もいる。しかも島には、全国各地からやってくる多くの観光客やダイバーの落とすカネで生活している者が少なくない。そんな島にとって、このような”暗い話”はイメージダウンになりかねない。

-大変勇気のいる仕事でしたね。そこまでしてやり抜いたのは?

こう問うと、彼女は二つの理由をあげた。一つは戦争が市井の人々にもたらす不幸について。そしてもう一つは、国をあげて再び右傾化の道を進むいまの時代についてである。

「戦争って、単に敵と味方の殺し合いではないんです。住民を巻き込んでくり広げられた沖縄戦を学ぶとそのことがよく分かります。人間同士の利害関係や対立、そして傷つけ合い・・・。その後遺症は戦後50年以上もたったいまなお癒えていないんです。戦(いくさ)に勝ち負けはないなぁと思ううんですね」

「人間が一つの方向に向かって結束し、つき進んでいくことの恐ろしさもつくづく感じました。戦前戦中の日本がそうでした。集団自決ってとても象徴的だと思うんです。犠牲者の82パーセントが女や子供というのも戦争の本質を表していますね。いまの日本はあの時代にとてもよく似ていると思うんです。国民の大多数が軍事基地や自衛隊に無関心です。そのあいだにも自衛隊はどんどん力をつけている。とても怖いですね」

真実を公表する過程では宮城さんもジレンマに悩んだ。集団「自決」を村当局によるものとすることは、結果として日本軍を免罪することにならないかと。

住民の中には日本軍からスパイ容疑をかけられ、首をはねられた者もいる。その一方で、16、7歳の少年兵までが敵艦に体当たりして死んでいった。戦争のもつそうした両面も明らかにしようと宮城さんは千葉、静岡、長崎と生存元兵士を訪ね歩いた。

「書かないことには事実は明らかになりませんから・・・。日本がこんな時代になってしまったいまだからこそ、やらなければならないと思ったんです」

いま日本は国家の思想がストレートに市民に向けられるタテ型社会。教育現場に君が代・日の丸が強制され、現職首相は靖国神社への公式参拝を公言してはばからない。そのうえ、A級戦犯を合祀したその神社の国家護持さえ叫ばれる今日だ。しかも国民の多くはそれらのことに無頓着で、さしたる反応も示さない。そんなこの国の人々の頼りなさを宮城さんは憂えるのである。



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