2010年11月17日水曜日

Okinawa 2010  座間味島の集団自決 (2)

座間味島での滞在中、ある居酒屋を訪れ食事をしていると、店のご主人らしいおじさんが気安く声をかけてきました。

最初は、家族で楽しく食事をしているのに失礼で変な人だなあと思いましたが、話の内容はいたってまじめで、沖縄戦における座間味島民の戦争体験に関することでした。いわゆる”語り部”と言われる方だったのです。

戦後六十数年が経過し、戦争体験者は高齢化し亡くなり数少なくなっていく。そんな中、戦争体験者の話を自分の耳で聴き、それを広く後世に伝えていくことは決して容易なことではありませんが、とても大切なことです。

彼は、観光で座間味島を訪れた人たちに、沖縄戦や集団自決の悲惨さを伝えている人でした。


語り部の自称「パパイヤ光太郎」さん



パパイヤ光太郎さんが発信しているブログ
http://zamami.blog97.fc2.com/


店を出る際、パパイヤ光太郎さんから、宮城恒彦さんという方が書かれた「沖縄戦体験記第21号『連行された逃亡兵』」(平成21年3月発行)という冊子をいただきました。

この冊子は、座間味島出身の元中学教師の宮城さんが、島のお年寄りを訪ね歩いて戦争体験を聞き書きして出版しているものでした。


(関連記事)集団自決の島の戦争体験を記録 座間味島出身の宮城恒彦さんが20冊目を発刊(2008年7月29日 janjan)

「3月がやって来ると、母親はいつも「アー、アー」と声を出して、嘆き悲しんでいた。3女を座間味島で亡くしたことが悔やまれて仕方なかったのでしょう。その母親の無念さを書き残そうと思ったのが記録を始めたきっかけです」。そう語る宮城恒彦さん(74)は座間味島の出身で、このほど20冊目の戦争体験記『機関銃の弾が出ない』を出版した。・・・
http://www.news.janjan.jp/column/0807/0807280127/1.php


この冊子、読んでみると当時の様子がリアルに表現され、あまりの凄惨な状況に心が張り裂けそうになることもありました。印象に残った次の部分について抜粋してご紹介します。

第一話 連行された逃亡兵(仲本盛義の証言)から「逃亡兵」「その後の逃亡兵は」「白旗掲げて」
第二話 這って逃げた2000メートル(宮平輝重の証言)から「尺取り虫のように」
第三話 幻影の兵士(内間弘子の証言)から「米軍上陸」


逃亡兵


移動してきたニタガーラは川幅も広く、平坦な場所もあり、窮屈だったウフガーラにくらべると居心地はよかったのです。しかし、流れる水は少なかったが、処々に水たまりがあって不自由はしませんでした。わずかな米に大量の水を入れて炊いた「おかゆ」 が一日一度だけ食事として与えられました。米は阿真のウチ(糸嶺家)の屋敷内にあるお宮に保管されていた日本軍の米を命がけで取ってきたと、運んできた人たちが話していました。野営して居る米兵たちのテントの間を撃たれる覚悟で急いで帰ったとも話していました。米兵たちは民間人と知って見逃したのではないでしょうか。

その頃から毎日のようにトンボ機(軽飛行機)が上空を旋回しながら数百枚の白い紙をまいていきます。焼け跡の黒い山肌を数百の白い蝶のように乱舞していました。近くに落ちた一枚を拾ってみました。そこには次のような日本語の文章が記されていたのです。

「米軍は住民には危害を加えない、殺さない、安心して山を降りてきなさい」との宣伝ビラでした。「捕虜にしてから殺すつもりだ」と、その文面を信用する者はいませんでした。

四月の初旬のある日、二人の日本兵がやってきました。年のころ、二十歳はとうに過ぎたかと思われる兵士でした。不安そうで、落ち着きもなく、逃亡兵とすぐ分かりました。「敵前逃亡は捕まったら処刑」のことは承知しているはずだが、覚悟の上の行動だったかもしれません。戦意を失った兵士にはもう気力もなく、ただ怯えているばかりでした。敵兵も怖いが、日本兵に見つかったら、銃殺は免れない、さらに、民間人に密告されるかもしれない、そんな心境であったのでしょう。二人は味方の兵に見つからないうちに一日でも早く投降したいと、阿真の人たちに救いを求めて来たのかも知りません。

阿真の避難民は優しく彼らを扱いました。風呂敷包みの中から数少ないフクター(ぼろ服)を取り出して軍服と着替えさせました。そして、寝るときは隠すように年寄りの間に挟みました。戦地に行っている我が子のことを思い出して熱心に世話する女性もいました。明日をも知れない自分の命なのに、子の身を思う親心には時や場所は関係ありませんでした。子どもながらも盛義の心にしみるものがありました。

その頃から、避難民の心境に変化があらわれてきました。食料も底をつき、限界に来ていました。宣伝ビラの内容にも動かされるようになり、また、すぐ近くにある自分たちの村が収容所になっており、米軍の優しい対応の情報も伝わってきたのです。ビラに書かれていた「米兵たちは捕虜を殺さない」という文言は本当かも知れないと思うようになりました。しかし、投降を決定的にしたのは、早く捕虜になった同じ集落のアガイ家の爺さんのスピーカーからの方言での呼びかけでした。

「阿真の皆さん、早く山を降りてきてください。ここには、慶留間さんも、知念さんも、阿真のどこそこに居ます」とマイクで放送してきたのです。それでも、応ずることはしませんでしたが、とうとう、そのアガイ家の爺さんは山までやって来て、収容所の様子を詳しく説明したので、みんな納得しました。

それでも、不安は残ったので、ウフヤ家のおじいさんが中心になって投降についての会議を開くことになりました。そして、「ワッターガ ンムン クミン オホーク ツクティ ウサギーク トゥ ドーリン ヌチ ビカーノ タシキテイ クミソーリ」(私たちがイモや米もたくさん作って差し上げますから、どうか、命だけは助けてください)と、投降した後、アメリカーにお願いしようと言うのが結論でした。「山を降りよう、命が大切だ、奴隷になってもかまわない」との言葉に逆らう者はいませんでした。

盛義はほっとしました。「助かった」と思いました。集団自決が始まれば自分の意志では逃げられない子どもだったのです。かくまっていた二人の日本兵も共に助かるかも知れない。日本兵を世話していたおばさんたちの顔にも安堵の色が見えました。兵隊たちも、村人たちの投降の話で「後しばらく」 の我慢だと、元気づいたように見える顔に色がさしてきました。

しかし、運命の神はそこへ悪魔を使わせたのです。突然、避難所に捜索兵らしい日本兵の二人が現れました。

「兵隊は居ないか」と、厳しいロ調で辺りを見回しました。みんなうつむいてしまい、顔をあげる者はいませんでした。しかし、逃亡兵はすぐに見つけられました。民間人の着物を着ていても、姿かたちから、そして、震えている兵隊を発見するのに時間は掛からなかったのです。

二人はまるで死人のような真っ青な顔をして、唇がブルブル震えていました。「これは処刑される」と盛義には感じられました。周りの人たちに気使ってか、捜索兵たちは荒々しい振る舞いはしなかったが、厳しい目つきで、時々、腰のピストルに手を触れたりしていました。その雰囲気に呑まれて周りの人たちにはどうすることもできませんでした。

捜索兵に伴われて二人の逃亡兵は刑場へ連行される人のようにとばとばと歩いていきました。藪に隠れる後ろ姿に死相が漂っていました。


その後の逃亡兵は

後日談になるが、戦後になって二人の兵隊の死体が阿佐村の裏海岸(チシ)の浜辺で発見されました。死んでから日が経つているので、夏の太陽に干された死体はスルメのように干からびて黒茶けていました。生き残って帰還した兵隊の砂川勝美氏『座間味戦回想日誌』に「四月初旬チシ海岸の砂浜で兵二名が住民の食料を奪取し、敵前逃亡を企てたとして処刑された。二人は大学出の召集兵だったとのこと。」の記録が残っています。この二人は阿真の避難民の中から連行されていった兵隊だったかも知れません。召集兵とは国の命令(赤紙一枚)で軍隊に入った兵隊。自ら進んで兵隊になった者は志願兵といいました。

また、日本軍の本部つきの伝令員だった富平敏勝さんは、部隊が解散するまで、軍と行動を共にしていました。彼は次のように語っています。

日本軍がチシの丘陵に陣を構えていたある日、A・B、二人の逃亡兵が連行されてきました。銃殺されるだろうとの話が出ており、また、許してもいいのに、との声も兵隊仲間の中にささやかれていました。

午後の三時項、Aという逃亡兵を挟んで、先頭に軍曹が、後尾には小銃を担いだ二人の兵がついて、チシの海岸に通じる獣道を一列になって黙々と進んでいきます。丘を降りるとすぐ其処は砂浜になっています。不思議なことに、その時間には艦砲の音や襲撃の様子もなく、辺りは静かでした。本部につめていた兵隊たちは、これから起こる悲劇をただ見守るだけでした。しばらくして、「バーン」と一発の銃声がチシ海岸のほうから聞こえてきました。声を出す者はいません。遠くに潮騒が聞こえるばかりです。

その後、敏勝さんの傍にいたもう一人のBという逃亡兵は、死の旅への身支度を始めています。気持ちを静めるように、ゆっくり、丁寧に時間をかけて脚絆を巻いています。時々、手を休めて、松林の枝の隙間から空を見上げています。心の中で故郷に別れを告げているのか、悲壮な面持ちでした。彼に声かけする者も居ません。しばらくすると、Aを処刑した一隊が重い足取りで帰ってきました。その一団をBは眼鏡越しにじっと見つめていました。何を思っていたのでしょうが。間もなく、数名の兵に伴われてBは獣道をチシの海岸へと降りていきました。

翌朝になって敏勝さんは兵隊が処刑された場所を一人で見に行きました。二人の死体は頭を海に向けて仰向けに倒れていました。顔は血混じりの砂にまぶされていて確認できないほど崩れていました。弾は頭を貫通したようです。一日置いて、また見に行きました。驚いたことに二人の軍服は剥ぎ取られ、靴もなかったのです。肌着だけでした。

それから二、三日たって、一人の兵が敏勝さんに「宮平君、これを君にやろう」と言って、一本の脚絆が渡されました。脚絆とは幅九センチ、長さニメートル四十センチのラシャまたは厚手の布に一メートル五十センチくらいの紐をつけたもので、ズボンの上から両膝下に巻きつけるものです。伝令員には軍服の支給はなかったので、脚絆があると、行動しやすいし、さらに、温かいので、喜んでもらいました。足首から巻き始めて最後の所に来たら、文字が記されているのに気がつきました。そこには「小澤」と記名されていました。処刑された一人の兵のものと分かりました。

戦後六十数年過ぎた平成二十年のある日、チシの海岸で海亀の卵を掘っていた小野さんという島の人が二体の遺骨を砂浜の中から発見したのです。それで、当時の処刑現場を目撃している敏勝さんに現場検証してもらったところ、「その場所に間違いない」という証言を得ています。頭蓋骨の発見はできませんでした。射殺されて割れた頭蓋骨は六十有余年の歳月が溶かしてしまったのでしょう。敏勝さんがもらった脚絆の主の小澤さんは埼玉県出身と分かっているが、あと一体は「田村」か「村田」か名前が確認できないようです。


白旗掲げて

昭和二十年も四月の半ばになり、避難生活も二十日を過ぎていました。ウフヤの爺さんの提案で山を降りることになったが、「捕虜は殺さない」という情報がまだ信じられず、村人たちは実行するのにずいぶんためらいがありました。

そんな中でも、山を降りる準備は着々と進められていました。しかし、一番の心配ごとは若い女性たちがアメリカーに暴行されはしないかということでした。それで、女性たちは顔に泥を塗ったり、襤褸をまとったり、または、男装したりして、女性には見えないような工夫をしました。降参の目印の「白旗」も苦心して作りました。身近に白い布なんてありません。白かったシャツなども長い避難生活で汚れて黒くなってしまいました。それで、飛行機からまかれたビラの紙を山中から集めてきて、ご飯粒をつぶして糊にしてつなぎ合わせました。

いよいよ山を降りる日がきました。手持ちの食料も完全に無くなっていました。日本軍は住民の食料を奪い、それに逆らうと殺されるという噂が流れたことが投降を急がせたのです。午前十時ごろ、一列になった阿真の避難民はニタガーラ山を下ってニタ道に出ました。女、子どもを挟むように前と後ろに男がつくという隊形になって。

ウフヤの爺さんが持つ白旗を先頭にして、田んぼが広がる道の途中までやってきました。アメリカーに見つけられるのではないかと、ひやひやしながら歩いていると、突然、大声や笑い声、そして、指笛が聞こえてきたのです。声のする方に目をやると、ヒラマチ山の北側の小高い丘に米軍の陣地ができており、兵隊たちが、投降していく盛義たちのほうを見下ろして眺めています。上半身の肌は陽に焼けて赤鬼に見えます。戦前、学校で見た紙芝居に出ていたアメリカーそっくりです。遠いので、角は見えませんでした。紙芝居の話は本当だったんだと盛義は怖くなってきました。

あの米兵たちが降りてきたら大変だ、殺される。びくびくしながら歩きました。大人たちは「見てはいけない。声も出すな」と幾度となく注意します。しかし、盛義は怖いもの見たさで、そーっと顔を山の方へ向けたりしました。

ようやく村の入りロに着きました。そこは福木並木に囲まれた路地でした。アメリカーに遭わずにすんだとほっとしました。ところが、目の前に深緑色をした車がありました。見たことのない珍しい乗り物だ、と思っていたら、その陰から三人の米兵が出てきたのです。初めてみる米兵です。山の上のアメリカーとは色が違う。軍服を着ているので、赤い肌は見えない。上官らしい背の高い兵はサバニをひひっくりかえしたような帽子を頭に載せています。他の二人はヘルメットをかぶっていました。異様な匂いを放っていました。そのうちの背の低い日本人らしい兵が片言の日本語を話しています。盛義が何よりも見たかったのは米兵の頭にある角だったが、帽子やヘルメットで隠しているのか、見えませんでした。

日本人顔した兵の指示で一列に並びました。一人の米兵が先頭のウフヤの爺さんの背中に白い粉を噴きかけました。いよいよ毒ガスをまいて殺されると、後に並んだ人たちは震えました。その様子を察知した兵が「シラミ コロス」と一言いったので、消毒するんだと分かって安心しました。それがDDTと分かったのは後になってのことだったのです。

消毒がすんだ後、米兵たちは箱の中から細長い茶色の菓子らしいものと四角い黄色い薄い板状のものを子供たちに差し出しました。すると、すかさず「ドゥクヌ イッチョウクトゥ カマンキヨ」と大人が即座に制しました。その意味が分かったのだろう。兵隊は折った半分を自分の口に入れ、大丈夫だよと、にこやかに自らかんで見せました。

それでも、親たちは「あの残っている部分に毒が入っているんだ」とあくまでも信用しなかったのです。それがチョコレートとビスケットという菓子であることを後で知りました。

その後、盛義たちは自分の家に着いたが、すでに避難民に占拠されて入れる隙間もなく、彼の家族は親戚の家に身を寄せることになりました。そして、苦しい、惨めな、戦後の生活が始まりました。しかし、すべて無の暮らしだったが、みんなの心には何かしら爽快な気分が漂っていました。

関連過去記事

Okinawa 2010  歴史を学ぼう-普天間基地 (2010年9月8日)
Okinawa 2010  歴史を学ぼう-辺野古 (2010年9月17日)
Okinawa 2010  歴史を学ぼう-宮森小学校 (2010年9月23日)
Okinawa 2010  文化を学ぼう-世界遺産・中城城跡 (2010年9月24日)
Okinawa 2010  文化を学ぼう-国指定重要文化財・中村家住宅 (2010年9月27日)
Okinawa 2010  自然を学ぼう-さんご畑 (2010年10月15日)
Okinawa 2010  自然を学ぼう-沖縄美ら海水族館 (2010年10月18日)
Okinawa 2010  座間味島の風景 (2010年10月25日)
Okinawa 2010  座間味島の海 (2010年10月28日)
Okinawa 2010  座間味島の集団自決 (1)(2010年11月16日)
Okinawa 2010  座間味島の集団自決 (2)(2010年11月17日)
Okinawa 2010  座間味島の集団自決 (3)(2010年11月18日)
Okinawa 2010  座間味島の集団自決 (4)(2010年11月19日)