地方国立大の意義訴え 岐大でシンポ 学長ら270人参加
地方国立大の必要性を訴えるシンポジウム「地方国立大学の挑戦」が14日、岐阜市の岐阜大で開かれた。
国の経済財政諮問会議のメンバーから国立大の存在を問う意見が相次ぐ中、岐阜大、三重大、金沢大、熊本大の学長らがあらためて意義をアピールした。
シンポは岐大が毎年開催してきた。今回は、経済財政諮問会議の議員が今年、「全県に国立大が必要か議論すべきだ」「ミニ東大型の総合大学は各県には要らない」などと発言したため、中部の大学に呼び掛けて国立大学協会とともに催した。
大学関係者や自治体や約270人が参加した。
パネル討論では、金沢大の林勇二郎学長は国立大の役割として「廉価な学費と確かな教育の機会均等」を挙げて地方国立大による教員や医師の養成の重要性を話した。
熊本大学長は、水俣市で「みなまた環境塾」を開き、人材育成していることを説明し「水俣市という不幸な歴史を持つ地で行うべきもの」と地方国立大学の使命を説いた。
三重大の豊田長康学長は、研究で成果主義が重視されつつあることに触れて「日本の企業が成果主義を導入することでかえって成果が下がったという報告をしていることを肝に銘じるべきだ」と批判した。(2007年12月15日付中日新聞)
1日目を聴講する機会を得ましたのでご紹介したいと思います。まず、各講演の主旨を配付資料から抜粋(敬称略)します。
開会挨拶(国立大学法人岐阜大学学長 黒木登志夫)
民間議員(経済財政諮問会議)たちは地方大学軽視、あるいは蔑視の考えを隠そうとしなかった。
曰く、「地方国立大学に元気がない。地方国立大学と首都圏の私大に合格したら、学生は私大を選ぶ。教員も首都圏の私大を職場に選ぶ。全都道府県に国立大が必ず一つずつ必要かどうか」(4月17日読売新聞)。「一律に運営費交付金を配分し、金太郎アメ的なミニ東大型の総合大学を各県に作る、そんな大量生産方式をやめなければならない」(5月8日朝日新聞)。
地方国立大学はそんなにダメな大学なのだろうか。われわれの答えは、断じてノーである。
教育でも研究でも、地方大学は本当に頑張っている。研究論文の量質から見ても、旧帝大系大学と遜色はない。法人化によって、地方大学は活性化し、個性を主張しはじめた。われわれは、ミニ東大になろうなどと考えていない。全国知事会の声明文にもあるように、地方大学がなくなったら、日本の各地から「知の拠点」が消え、日本そのものの活力がなくなってしまうであろう。
国公私立の大学の設置場所を都市部とそれ以外の地方に分けてみると、国立大の学生の70%強が地方の国立大に在学しているのに対し、私立大学の大半(55%)の学生は都会に集中している。国立大学の価値は、地方にあることが分かるであろう。
われわれも、地方大学からの情報発信が少なかったことを率直に反省する必要があろう。
今回の岐阜シンポジウム『地方国立大学の挑戦』は、地方国立大学の役割を知っていただくために企画したものである。今後も引き続き、地方国立大学から、その価値を社会に訴えるシンポジウムが毎年開催されることを期待している。
主催者挨拶(社団法人国立大学協会専務理事 赤岩英夫)
国立大学は、国立大学法人法により平成16年4月に法人化されたが、ここではまず、国立大学の法人化とそこで期待されていること、またそれに応える取組みについて事例を交えて概観する。
次いで、国立大学の役割と存在意義が、高等教育の公共性と質の保証、さらには地方におけるリージョナルセンターとしてなどの存在そのものにあることを、新制大学として発足して以来の来し方を振り返ることで確認したい。
もちろんこのような認識は、我が国のこれからの高等教育の発展において、国立大学が果たすべき新たな役割を論ずる上で必要とするものであることはいうまでもない。
一方、国立大学を取り巻く環境や法人化を巡る解釈において、法人移行時と現在とでさまざまな違いや、それによる齟齬が随所で出始めている。最後に、これらのことを検証し、国立大学法人が第2期中期目標計画に向けて、運営基盤を確かなものとする上での参考に資したい。
パネルディスカッション(三重大学長 豊田長康)
政府内諸会議において、大学間の「競争原理」、「選択と集中」、「評価にもとづく大胆な傾斜配分」の必要性が強調されている。
しかし、これらの原則は、すでに民間企業も経験している通り諸刃の剣であり、「目的」を明確にして、その目的を達成するための「手段」として適切に使わないと、特に「手段の目的化」に陥ると、わが国全体の大学の活動や国民の利益にとって逆効果を招く危険性があると考える。
わが国における地方大学と中央の大学との間の研究費の傾斜配分は、米国に比較しても急峻であり、すでに「格差」は十分につけられていると考える。
研究費あたりの国際的論文数や被引用数は、地方大学の方が中央の大学よりも高い値を示しており、これ以上の「格差拡大政策」が、わが国全体の研究のアクティビティーを向上させるとは思えない。
政府内諸会議における大学間競争原理等導入の目的は、わが国の大学の「国際競争力」の向上であり、その指標としては「一部大学の国際ランキングの上昇」であるように読み取れる。
これ自体を否定するわけではないが、この目的達成のために限られた財源の中で大学間の「選択と集中」や「傾斜配分」を適用すれば、地方大学への予算が削減されることになり、効率の良い地方大学の機能が低下して、わが国全体としての大学の国際競争力は低下する。
それと同時に、大学の地域社会貢献という、「一部大学の国際ランキングの上昇」よりも国民全体にとって大切かもしれない大学の「目的」が損なわれることになる。
大学附属病院は地域社会と直結しており、大学への政策が鋭敏に社会問題化する部分である。現在、地域社会の最大の政治問題の一つである医師不足にも、大学等への政策が直接・間接に影響を与えている。
「目的」を考えない、財政改革のためだけの予算の削減や「選択と集中」政策による地方大学への交付金の削減がこのまま進めば、地域の大学病院の大切な機能が損なわれ、地域医療の崩壊が促進されるとともに、わが国全体の医学・医療分野の国際競争力の低下を来たす。
これは、大学病院と医学・医療分野に限ったことではなく、他の分野でも同様のことが起こりうる。
逆に、OECD諸国に一歩近づく高等教育に対する公的投資や、目的を明確にした適切な制度改革によって、地方大学がその潜在力を発揮できる政策がなされるならば、わが国全体の学術の国際競争力を向上させ、同時に地域再生を促進できる可能性があると考える。
パネルディスカッション(熊本大学長 崎元達郎)
「地方国立大学」を地方に立地する総合大学(単科大学と旧制帝大を除く)を意味するとしての話としたい。「地方国立大学」の存在意義としては、他にも挙げられるだろうが、一般に次の2点が強調される。
- 48都道府県に均衡よく配置され、比較的低廉な学費により高等教育の機会を保証し、知的・道徳的水準の高い国民を育成すること
- 地域の知の中核的拠点として、人材養成や研究により、教育、文化、行政、産業、医療の充実発展に寄与すること
国立大学の役割の表現として、最近、Regional CenterとNational Centerという言い方をされるが、その存在が地域に不可欠なRegional Centerとしてだけでなく、National Centerとして国際的に存在感を示すことが、地域の人々の誇りともなるし、社会の期待するところではないか。
パネルディスカッション(岐阜県経営者協会会長・イビデン(株)会長 岩田義文)
地方の国立大学は、元々その地方にとって必要な人材育成を目的とした高等専門学校(小・中学校の教員、医者の養成、地場産業・経済の発展を担う人材育成を目的とした)を母体とし、それらを集めて国立大学として発足し、50年が経過しています。
50年を過ぎての課題は、下記の2つに絞られると思います。
- 医学部、教育学部を除く学部は、発足時に比べ、大学毎の特徴が無くなってきている事
- 経済活動が、グローバルに展開される現在、それに通用する人材育成が遅れている事
聴講した率直な感想としては、時間の関係でパネラーによる討議が省略されたこともあり、総じて各講演者は、自校の特色ある取り組みの紹介に終始した感が否めませんでした。
地方国立大学総体として今後どう生き抜いていくのかという実質的な議論に時間を使っていただきたかったと思います。
そんな中で、個人的に印象深かったのが、唯一の民間出身である岩田氏のお話でした。お言葉の一端をご紹介したいと思います。
- 政府を批判しても仕方がない。「なげき節」だけではだめ。地方国立大学のいい取り組みを社会に発信していくべき。
- 国立大学の評価は、ナンセンスなものに金を使っているという感じ。目標の立て方はもっと定量的にすべきだし、ワールドワイドな評価を行うべき。
- ベンチマーキングを行いそこに勝つという成果主義を導入すべき。
- 問題点の先取りをして変化に柔軟に対応すべき。その上で何を提案していくか考えるべき。
- 資源のない国は「ヒト」を作るしかない。大学にとって重要な論文数は企業にとっては関係ない。
- 国立大学には「減価償却」という考え方がない。
- 大学の教員はポテンシャルは高いが同じ方向を向いていない。