「誰かが亡くならない限り、基地はなくならないのでしょうか」。6年前に起きた普天間飛行場の米軍ヘリ墜落事故の現場近くに住む主婦は思い詰めたように語った。
今もヘリの音に身をこわばらせる彼女にとって、名護市辺野古を移設先とする日米共同声明は、普天間飛行場の存続と同義にみえる。
県内移設を前提にしている限り、普天間返還は実現しない。それが沖縄に暮らす多くの人々の実感だ。
「自民党政権では、解決できなかった。政権が代われば、変わるかもしれない。」そんな望みを託した鳩山由紀夫首相に裏切られた今、沖縄でよく耳にする言葉がある。「また沖縄を切り捨てるのか」
学校や老人までも動員された末に「捨て石」にされた沖縄戦。1952年には主権を回復した日本から切り離され、米軍統治下に。米軍の強権下で基地は拡張され、米兵による犯罪が頻発した。基地の重圧は72年の復帰後も変わらない。戦争から続くすべての記憶が今につながっている。
鳩山首相は2度の沖縄訪問で、県外移設を断念する理由を、普天間のヘリ部隊を海兵隊の他の地上部隊と切り離せないから、と説明した。確かに沖縄の海兵隊すべてを移せる基地を本土で確保するのは容易ではないだろう。ならば、なぜ、沖縄ならいいのか。1月の市長選で移設反対の稲嶺進氏を当選させた名護市の民意をなぜ無視するのか。
日米合意を優先し、沖縄との約束を捨て去った首相への不信は深い。最後の最後に筋を通したとはいえ、県内移設に突き進む首相を止められなかった社民党も同罪だろう。
それでもなお首相へのかすかな期待を口にする人もいる。望みを託すべき相手を見出せない中での苦渋の選択とでも言えよう。絶望することさえ許されない、基地を抱え続ける沖縄の現実だ。
名護市ではすでに移設容認派の市議や前市長への政府関係者の接触が始まっている。普天間移設と引き換えに巨額の振興策が投じられてきた名護市に、基地建設への期待があるのも事実だ。だが、寂れたままの名護の町並みは、基地と引き換えの振興策の限界を示している。
「カネをばらまけば何とかなると思っているのかもしれないが、沖縄を見下すのはやめてもらいたい」。最も恩恵を受けるはずの大手土建業者さえそう話す。
遠く離れた南の島に基地を封じ込めていても、何の解決にもならない。日米関係を本当に危機にさらすのは、その恩恵を享受しても、決して痛みを共有しようとしない国のありようである。(2010年5月29日 朝日新聞 那覇総局長 後藤啓文)