【主張】こどもの日 家族で食卓囲む楽しみを(2010年5月4日産経新聞)
希薄化しているといわれる現代の人間関係が、どうやら家族の間にも及ぼうとしているようだ。ある精神医学者は、一つ屋根の下に暮らしながら心の通い合うことの少ない家族を「家庭のない家族」と呼んだ。
そんな家族の空洞化を象徴する例として、一家で食卓を囲む回数が減っていることが挙げられる。文部科学省が作成した教育のヒント集「家庭教育手帳」によれば、中学2年生の約3割が「朝食をひとりで食べた」と答えている。夕食も、夫婦の共働きや子供の塾通いなどで、めいめいの「孤食」が増えているものと思われる。
江戸時代末期の歌人、橘曙覧(たちばな・あけみ)は「たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時」と詠んだ。親子が寄り添って食事をする光景ほど、幸せを感じさせるものはない。
「家庭教育手帳」がさらに「家族一緒に食事をすることによって、家族のふれあい、食事のマナーなど社会性を深めることにもつながります」と示しているように、食事は単に空腹を満たすだけの場ではない。家族が濃密にふれあうなかで、子供が食事マナーや挨拶(あいさつ)のほか自然の恵みに感謝する心まで学ぶ教育の場でもある。
いまでは「孤食」や、家庭でも調理済み食品で済ます「中食(なかしょく)」など食事にまつわる新語が次々に生まれる一方で、「団欒(だんらん)」のように昔ながらの家族観を表す美しい言葉が縁遠いものとなりつつある。一家団欒の経験が少ないままに成長した子供が、結婚して新たな家庭を築くとしたら、どのような家庭になるのだろう。
あすは「こどもの日」である。祝日法には「こどもの幸福をはかる」との文言が見られるが、子供にとって「孤食」が幸福なひとときであろうはずがない。かつて貧しい時代であっても、母の手作りの料理を皆で「おいしい」と喜びながら食べる「豊かな食事」があり、心の通う「豊かな家庭」があったことを思いだそう。
「こどもの日」はまた、「母に感謝する」日でもあると定められている。行楽に出かけるにしろ家で過ごすにしろ、一家で食事を共にしながら母への感謝の気持ちを広げる日としたい。日本中に「家庭のない家族」が蔓延(まんえん)したのでは、国家も豊かにはなれまい。福沢諭吉が「即(すなわ)ち国の本は家にあり。良家の集まる者は良国にして・・・」と説く通りである。
社説:こどもの日 この笑顔を守るために(2010年5月5日毎日新聞)
闇の深さに目を背けて明るい未来を語るのはむなしいから、あえて虐待の話をしたい。
新聞で児童虐待の記事を見ない日はないほど各地で悲惨な事件が続いている。生後6カ月の長男の頭を水道の蛇口にぶつけてくも膜下出血の重傷を負わせた父を逮捕。1歳7カ月の男児の腹を何度も強く押して小腸裂傷で出血死させた母の内縁の夫を逮捕。生後1カ月の次男の頭を壁に強くぶつけた父を逮捕。自宅の壁に生後9カ月の長女を投げつけ骨折させた父を逮捕--。これらは4月に起きた事件のごく一部である。「あやしても泣きやまないのでイライラした」「取り込んだ洗濯物で遊んでいたので腹が立った」。何も言えず逃げることもできない乳幼児への暴力は、どこにでもある日常の小さなことが引き金になる。
親の悪口を言わない子どもが多い。三重県鈴鹿市で母の内縁の夫から虐待された小学1年の次男が脳内出血の大けがをした事件では、3カ月前に学校が虐待に気づいていた。長女が真冬にヨットパーカ1枚で外に出されているのを近所の人たちが目撃し警察に通報したが、「入ってはいけない部屋に入った私がいけない」と長女は話した。顔のあざや目が腫れていたことも何度かあった。「足を滑らせて転んだ」と長女は大人たちをかばっていた。
この子らにどんな罪があるというのだろう。いや、どんな親にしても憎くて子どもを虐待しているわけではないと思いたい。完全失業者350万人という社会の中で自らの存在価値を見いだせず、貧困と孤立に陥っている大人のなんと多いことか。バラバラになった家族が寄り集まった密室でストレスがか弱い子どもに向けられているのだ。
わが国の児童虐待対策は歴史が浅い。虐待の統計を厚生省(当時)が取り始めたのは1990年。その10年後に児童虐待防止法が制定され、法や公権力の家庭内不介入という原則が大転換された。急激に増え続ける虐待相談に対応するため児童福祉司が増員され、制度改正も何度か繰り返されてきた。それから10年がたった。虐待の早期発見や子どもの保護などの初期対応がまだまだ不十分であることを最近の事件は物語る。一方、虐待する親の改善や指導はほとんど手つかずだ。親子関係が修復できない場合、里親や小規模のファミリーホームなど家庭を代替する制度の整備も急がれる。
さらに重要なのは虐待が起きないように貧困と孤立をなくしていく取り組みである。カネ(子ども手当)だけでなく、人々の関心や社会的資源を子育てに向け、子どもたちの笑顔があふれる社会にしたい。
昨年も似たような記事を書いていました・・・発想が貧困な筆者です。
かけがえのない子どもたち(2009-05-06 大学サラリーマン日記)