変化を好まないネガティブな教職員が少なくない中、あらゆる場面で彼らからの批判や抗議をくぐりぬけながら、法人としてのあるべき姿を追求し続けなければならない使命感や、大学経営に関する頼るべき前例も知識・経験の抱負な参謀的役割の事務職員もいない中で連日究極の判断を求められる緊張感に押しつぶされそうになりながら耐えてこられた(あるいは現在も耐え続けておられる)学長さんも多いのではないでしょうか。
そんな国立大学の学長さんに関して、私たちがこれからの学長像を考えていくに当たって参考になる論考を抜粋してご紹介します。この論考は、神戸大学の川嶋太津夫氏(当時)が書かれた「国立大学の法人化と学長職の変容」と題するもので、私にとっては、鋭く実態が捉えられておりとてもわかりやすく的確な示唆を与えてくれるものでした。問題は、この正論を現場にいる教職員がどのように認識し実行していくかなのですが、そこが難しいのが大学経営でして・・・。(太字は私の判断で強調したものです。)
国立大学の法人化と学長職の変容
1 はじめに
国立大学の法人化は、国の行財政改革が大きな推進力となったことは否定し得ないが、国際的な視点で見れば、早晩法人化は避けられない事態だったであろう。各国に共通するのは、高等教育への政府からの支出の減少、大学の活動に対する社会からのアカウンタビリティと質保証の要求の高まり、そして何よりも、知識基盤社会において知識の継承と創造の中心アクターとして、国際的な国家間競争への大学の貢献に対する期待の高まりが指摘できる。言い換えれば、このような大学を取り巻く劇的な環境変化のもとでは、個別大学に大幅な自律性や裁量権を与え、機動的な大学経営を可能としない限り、各大学も、また国家そのものも知識基盤社会における国際的な経済競争に打ち勝てないということである。そのため、年度予算のほぼ50%が運営費交付金として政府から措置されるものの、各国立大学には独立した法人格が付与され、財政的に自立し、自律的・機動的に経営できるよう「国立大学法人」が設立された。まさに世界中で起きている「知の共同体」から「知の経営体」への転換がわが国でも起きたのである。この国立大学の「大転換」において、学長の役割や権能も大きく変ることが期待された。
2 学長に期待される役割の変化
法人化される前の国立大学は文部科学省の「一部門」であった。したがって、授業料や診療費などの自己収入は一度国庫に納められ、他の政府部門と同じく、年間の業務に必要な経費は、改めて政府(文部科学省の国立大学特別会計)から年度ごとに予算として措置される仕組みであった。予算は専攻分野ごとの学生数や教職員数などの積算基準に基づいているため、大学は年度末までに粛々と予算を「執行」すればよく、資源を目的達成のために効率的・効果的に配分するという意味での「経営 Management」は必要なく、大学は教育研究という業務を「運営Operation」していればよかった。つまり、これを車の運転にたとえれば、法人化以前は、車の運転席に座っていても自らハンドルを握る必要はなく、文部科学省というオートドライブが、毎年目的地まで連れて行ってくれたわけである。大学(教員)は運転(経営)の心配をすることなく教育研究活動に従事していればよかった。しかし、法人化後は、大学が自ら運転席に座って、天候や路面状況の変化や燃費を考慮しながら、目的地にできるだけ早く、そして安全に着くことが求められるようになったわけである。
したがって、法人化前は車の運転席に誰が座るかどうかはあまり重要ではなかった。運転免許(経営手腕)の有無さえ問われなかった。教員の全てが平等に運転席に座る資格を有していたわけで、これが「同僚制 Collegiality」と呼ばれる大学の運営形態であった。しかし、実際には運転席には一人しか座れないので、中世大学以降、運転席に座る教員の「対等なるものの筆頭」を「学長 Rector」として全員参加の選挙で選出してきたわけである。従来の学長は「知の共同体」の「代表者」としての役割以上のことは期待されていなかったのである。学長は、対外的には教員の代表として様々な儀礼に参加し、学内的には最高意思決定機関とされた評議会の議長を務めるのが主たる役割であった。したがって、単なる同僚教員の代表に過ぎない学長が、他の同僚教員に指示を下すこと、すなわち「トップダウン」の意思決定は不可能であった。
しかし、20世紀の終盤から 21世紀にかけて大学を取り巻く環境が劇的に変化した。わが国も含めて、大学が政府機関の一部であった国々では大学は政府の一部門から、独立した法人組織へと制度変更されるとともに、「確実なことは不確実なことである」という不透明な競争的環境に各大学は放り出されることとなった。そこで、学長の役割も、これまでの教員の「代表者」としての役割からの変貌を余儀なくされている。先ほどのたとえで言えば、少なくとも運転免許(経営手腕)は必要条件となった(はずである)。では実際にどのように学長の役割は変化しているのであろうか。
英米の大学では、学長は単に教員の「代表者」ではなく、優れた学問的業績を有する教員のなかの「リーダーacademic leader」、さらには「経営者」(それも必ずしも大学教員や研究者である必要はない)としての役割へと大きく変化し、それにともない大規模組織を効率的に経営できる能力、具体的には対人関係能力、コミュニケーション能力、外交手腕や交渉力、そして戦略的な思考と実践力などの資質や能力が求められるようになった。
では、わが国の学長、とくに国立大学の学長にはどのような資質や能力が求められ、あるいはどのような役割が期待されているのであろうか。国立大学の法人化にあたって、文部科学省はその制度の検討を行い、その結果を『新しい「国立大学法人」像について(通称「緑本」)』第2部 組織運営として公表した。その中で、あるべき国立大学法人を検討する視点の一つとして「経営責任の明確化による機動的、戦略的な大学運営の実現」をあげ、そのために学長は「法人化された大学の最終責任者として、法人を代表するとともに、学内コンセンサスに留意しつつ、強いリーダーシップと経営手腕を発揮し、最終的な意思決定を行う」ことが期待されていた 。ここには、先に紹介した欧米の大学長と同じように、単に同僚教員の代表であるだけでなく、強力な「リーダー」であり、「経営者」としての学長像が描かれている。
では、実際に学長の選考に当たって、このような国立大学法人の学長に期待された役割を明確にし、その役割に相応しい候補者の資質や能力を規定した上で、候補者選定が行われているのだろうか。そこで、複数の国立大学の「学長選考規程」等を調べてみると、驚くことに、以下に紹介する大学の規定と、全く同じ表現で、国立大学法人法第12条第7項の規定をそのまま引いたものがそのまま学長の資格とされている。
「学長候補者は、人格が高潔で、学識が優れ、かつ、大学における教育研究活動を適切かつ効果的に運営できる能力を有する者とする。」(M大学)
この表現からは、「緑本」に記述された強力な「リーダー」であり、戦略的な「経営者」としての学長像は浮かび上がってこない。第一に学長に求められる資質は人格の高潔さと学識の豊かさであり、期待される役割は、教育研究活動の適切かつ効果的な「運営」であって、財務も含む大学という複雑な組織の効率的な「経営」能力については明示的に言及されていないからである。むしろ、この規定はアメリカの大学で「最高学務責任者」とされる”Provost=Chief
Academic Officer”の役割に近い。
ところが、学長候補者の資格については、「強力なリーダー」あるいは「経営手腕」について明確な記述がないにもかかわらず、今回の調査ではほぼ全ての学長が、「リーダー」としての役割を「重視している」「やや重視している」と認識している。興味深いのは、その一方で「大学の顔」や「調整者」といった従来の学長像への否定意見(「余り重視せず」)が相当数存在することである。この結果をあえて解釈すれば、国立大学の各学長は、法人化の理念を極めて忠実に内面化しているということであろうか。
4 国立大学長の挑戦
厳しい環境下に置かれている国立大学法人の経営の最終責任者である学長のありかたについて、課題は大きく二つあるだろう。一つは学長選考にかかる課題であり、他方は学長のキャリア・パスと研修に関わる課題である。
4-1 学長の選考方法・過程
国立大学法人法では、学長の選考あるいは解任は学長選考会議の専決事項とされている。しかし、多くの大学では円滑な制度移行を目指して従来どおりの意向投票を実施している。ただし、従来と異なる点は、先にも指摘したように教員だけでなく事務職員にも選挙権を与える大学が増えていること。また、複数の最終候補者に所信表明の機会を設け、それぞれの候補者の大学経営の方針を理解した上で意向投票を実施する大学も多い。これらの方法は、法人化以前の所信表明もなく、いきなり教員のみの投票によって学長を選ぶ方法に比べればかなり大学経営の適格者の選考の改善にはなっているだろう。しかし、意向投票をベースとする限り候補者は学内に限定されるだろうし、人気投票に堕す危険性も回避できない。一気には行かないにしても、英米のように、学長に必要な能力と資質、そして職責を明確にした上で公募し、広く学内外から適任者を探すべきであろう。ただし、学外から学長に就任した場合、学内での支援者が少なく孤立する可能性もありえよう。英米ではそういう場合、学長を選任した理事会が一貫して学長への支持と支援を保証することによって、学長も経営に専念できることになっている。しかし、現行の国立大学法人制度では学長選考会議は学内・学外の委員同数で構成することになっており、学長選考会議が英米の理事会のように自らが選任した学長を一貫して支持・支援できるか疑問である。国立大学法人制度が目指した「強いリーダーシップと経営手腕を発揮し、最終的な意思決定を行う」学長を選任するには、法制度そのものの見直しも必要となるかもしれない。
4-2 学長のキャリア・パスと研修
繰り返し述べてきたように、これからの国立大学の学長は「対等なるものの筆頭」ではなく、学識豊かな学者であると同時に強力な「リーダー」であり、経営手腕が強く望まれている。学識の高さについてはともかく、リーダーシップや大学経営手腕については多くの学長にとって新たな挑戦となる課題であろう。その課題の解決には体系的な研修が不可欠であり、国立大学協会でも研修プログラムを実施中である。しかし、いまだ内容と方式については模索中であり、今後は一人ひとりの学長のリーダーシップ・スキル診断、それをもとにしたメンタリングやコーチングを含む個人的な研修の実施、また優れた大学経営の事例分析や実地訪問、さらには民間企業トップとの交流機会の拡大など、研修事業の一層の充実が望まれる。
また、学長のキャリア・パスの分析から判明したように、学部長等の部局長は将来の学長候補者の「人材プール」である。部局長はとかく自部局の利害を中心に思考し、大学全体あるいは内外の高等教育の動向を理解したり、それらに関心を示したりすることが少ない。そのため「学部の経験しかない学部長(学部教授会)が、まま全学の挙動にストップをかけてことが進み難かったことの繰り返しが、戦後いくつもの大学が世界の流れの中で取り残されそうな現状をつくってしまった」。ところが、現在のところこれらの職についている教員に対する研修の機会は、個別大学においても全国レベルでも全く関心が向けられていない。今後、世界の流れに取り残されない大学経営の手腕を有した強力なリーダーである学長を育成するには、将来の学長の有力候補者である部局長に対する研修がぜひとも必要である。
最後に、学長に選任されない場合、ほとんどの副学長は再び教授職に戻るケースが多い。せっかく学長の近くで学長職とはどのような役割かを学び、学長を補佐して大学経営に携わってきた経験や学習が浪費されていることになる。英米では Provost や Pro-Vice-Chancellorと呼ばれる副学長が、新たに他大学の学長に選任されるケースが多い。わが国でも今後大学経営の専門職化を目指すならば、学長の選考方法を先にも提案したように公募制として、(外国大学も含めて)他大学の現職学長、副学長から選任することを真剣に考えるべきであろう。国立大学の多くが教育研究の「グローバル・センター・オブ・エクセレンス」を目指すならば、そのインフラである大学経営とそれに責任を持つべき学長自身、またその育成や選考過程もグローバルなものにすべきではなかろうか。
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